2015年8月2日日曜日

復しゅうこそクリエイターの命 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第十二回


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年7月11日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下、ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第十二回に参加したので、レポートをお届けします。

第二期岩崎夏海クリエイター塾は、概ね1時間目にハックル氏による講義、2時間目に塾生による宿題(映画であることが多い)作品のプレゼンテーションとそれに続くハックル氏の講評という形式で授業が行われています。

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第二期岩崎夏海クリエイター塾の最終回となった今回は、ハックル氏を中心に制作され、ぴあフィルムフェスティバル(以下、PFF)に応募された自主制作映画『小劇場のボクサーたち』の審査結果発表があった。そこから、クリエイティブに向かう際に肝要な心持として「復讐心」が導き出された。

面白い映画があるからと女の子を部屋に誘った結果 - 源氏山楼日記
http://genjiyamaro.hatenablog.com/entry/2015/03/27/170924

宿題となった映画は、以下の3作品である。
・コーエン兄弟監督『FARGO / ファーゴ』
・マーティン・スコセッシ監督『GoodFellas / グッドフェローズ』
・クエンティン・タランティーノ監督『Jackie Brown / ジャッキー・ブラウン』

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  • 一流と超一流を隔てる谷
  • 復讐心が人を生かす
  • 客観視なくして理解なし



■一流と超一流を隔てる谷

この授業の前日に、ハックル氏の元に、PFFに出品した映画の落選通知が届く。そこで、ある感情が呼び覚まされた。それは、海老沢泰久氏著『ただ栄光のために―堀内恒夫物語(新潮文庫)』のエピソードに喩えられる。堀内恒夫選手のフィールディングがあまりに上手く、本気でやっていないように見えたために、コーチから咎められたというものだ。巨人軍のコーチという一流の人間であっても、超一流を見抜くことができないという深い谷があるのだ。

この問題は様々な局面で表面化する。ハックル氏のブロマガでは、ある将棋の対局で羽生善治さんが打った一手の価値を見抜くことができたのが、同じように棋士として超一流の米長邦夫さんだけだった、という例が紹介されている。

競争考:その3「相対的な価値と絶対的な価値とではどちらが上か?」(2,322字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar523834

この例では、羽生さんと米長さんの実力の高さが証明されるというポジティブな作用であったが、多くの場合、それは深甚な影響をクリエイターにもたらす。以前、岩崎夏海クリエイター塾で課題となった映画『アマデウス』では、モーツァルトが作曲する音楽の真の価値を知るのはサリエリだけという様態が描かれ、モーツァルトは苦しみの中でその生涯を終えた。

そしてハックル氏もまた、『小劇場のボクサーたち』のなかに、複数の「痕跡」を残したのにもかかわらず、審査員はそれを読み解くことができなかった。30代でご自身の小説が理解されず、「すべての編集者はバカである」と悟っていながら、映画に携わる人に対しては「まともな人間であろう」という買い被りをしてしまった。同じレベルの読み解きをしてもらえるという予断を抱き、過ちを繰り返した。映画の見方を知らない人間が審査に携わっているとは、露ほども思わなかったのだ。


■復讐心が人を生かす

小説に関してはハックル氏はご存知のとおり2009年に「もしドラ」を出版され、リベンジを果たした。映画においても当然、捲土重来を図るお心積もりであるが、そこで重要になるのが冒頭に挙げた「復讐心」なのだ。ハックル氏は手塚治虫氏著『BLACK
JACK』(ブラック・ジャック)のエピソードからそれを説明する。

「復しゅうこそわが命」で、ブラック・ジャックは、家族をテロリストに殺され自身も瀕死の重傷を負った女性を治療するのだが、彼女はブラック・ジャックをその犯人だと思いこんでいる。しかし、ブラック・ジャックはあえて誤解を解かず、リハビリを施し続ける。完全に回復したあとで、勘違いだったということがわかるのだが、なぜ誤解を解かずにいるのかという周囲の疑問に対して、ブラック・ジャックはこう答える。
「家族を失って生きる気力を失いかけている彼女を支えているのは、自分への復讐心だけだ。その気持ちだけが、彼女に生きる努力をさせている」

復讐心が人を生かすことがあることを知っていた手塚治虫氏の透徹がここにあり、そして人を真に奮い立たせるのは「復讐心」であるとハックル氏は言う。


■客観視なくして理解なし

ハックル氏をクリエイションに導いたのは、前項において述べた「復讐心」であった。ハックル氏は3歳のときに「理解されない」という思いを抱き、爾来伝え方に関する技術を磨いてきた。

しかしクリエイションにおいても実生活においても、「理解されない」壁は常に付きまとっていた。明確に論破しても、理解をもたらすことができないことがあるのだ。なぜなら、相手に自身を客観視する気持ちがなければ、それが正しいことであっても相手は理解することができないからだ。

そして客観視することは、自身の矮小さを直視することでもある。ゆえに苦しみが伴うために、多くの場合はそれを受け入れることができない。先般の例で言えば、PFFの審査員は自分に見る能力がないことを、客観視できない。かてて加えて、彼らは「自分は客観視できている」と勘違いしているのだ。

翻って岩崎夏海クリエイター塾では、古今の偉大なクリエイティブに触れ作品の構造を見抜こうとする中で、ハックル氏が繰り出す本質へのアプローチの前に、自身の矮小さを否が応にも突きつけられてきた。塾生たちは、より大きなものに寄り添うことを学び、それぞれの人生に変革をもたらした。その実例を、一部の塾生による今回のプレゼンテーションから抜粋して紹介し、本稿を終えたい。

S山氏
外資系人事コンサルタントのS山氏は、『ファーゴ』の大きなテーマでもあり、岩崎夏海クリエイター塾で学んだクリエイティブの本質ともなっている「」に注目した。そして「大きな嘘」で部下と自身を動機付け、逆に「小さな嘘」で逃げようとする部下を窘めることで、業務上の難局を乗り越えた自身のエピソードと結びつけ、クリエイティブに触れることが、人生を良いものに変えていくことを証明した。

K谷氏
画家であり、短大で美術の教鞭を執るK谷氏は、『ジャッキー・ブラウン』の登場人物から受ける印象を、抽象画として表現した。ハックル氏は、絵を描くことが映画と現実を結ぶ「コード」を読み解く手段として適しているとして、この試みを賞賛した。
K谷氏は、画家としての矜持を一旦「リリース」することで、今秋に文章で商業出版デビューすることとなった。

K上氏
ハックル氏が発表するほぼすべてのコンテンツに触れ、岩崎夏海クリエイター塾随一かつ生粋のハックル氏ファンであるK上氏は、伝え方の工夫として、毎回映画の画面キャプチャを用いるという周到さでプレゼンテーションを展開した。『ファーゴ』において、登場人物の住む町の位置関係や規模、生活習慣などからそれぞれの人物に設定された対立概念を導き出す分析を行ない、ハックル氏をもうならせた。k上氏の岩崎夏海クリエイター塾に対する姿勢は、コンテンツのいち消費者としてのありようをこえて、魅力的な場を持つコンテンツとして作り上げていく上で欠かせないものであった。

O原氏
O原氏は『グッド・フェローズ』冒頭の「ギャングになりたかった」という一言が、「自分と違うと思える」ことで、不要な感情移入が排除され、受け入れがたいギャングの世界観の映画が見やすくなることを見抜いた。O原氏は、これまで受けたハックル氏からの数々の指摘を余すことなく受け入れ、岩崎夏海クリエイター塾塾生中で最も成長したと言わしめた。


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2014年の7月から1年かけて参加してきた第一期および第二期岩崎夏海クリエイター塾は、ひとまず終了となりました。自身の総括は機会を改めるとして、岩崎夏海クリエイター塾という素晴らしい場を提供してくださったハックル氏と株式会社源氏山楼の皆さま、ともにクリエイティブな場を作り上げる仲間となった塾生の皆さまに、深くお礼申し上げます。

ハックル氏の執筆などの都合が重なり2016年1月からの開催予定となっている第三期まで約半年の猶予ができることになりました。その期間を利用し、1年間学んだことを生かした活動ができればと考えております。


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岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
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2015年7月7日火曜日

透徹した倫理観で差別する 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第十一回


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年6月27日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第十一回に参加したので、レポートをお届けします。

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「生きる」ということは「問題解決」することである。ハックル氏はそう断言する。そして、「アイデアというのは複数の問題を一気に解決するものである」とする言葉を紹介する。これは、任天堂のゲームデザイナーである宮本茂氏の発言を、同じく任天堂の代表取締役社長・岩田聡氏が紹介することで、ネットを中心に広く人口に膾炙しているものだ。

アイデアというのはなにか?――― ほぼ日刊イトイ新聞
http://www.1101.com/iwata/2007-08-31.html

アイデアとは、一体どういうものなのだろうか。ハックル氏ご自身のクリエンション、そして宿題となっていた、スティーブン・スピルバーグ監督『JAWS』『激突』、宮崎駿監督『魔女の宅急便』『耳をすませば』から探る。

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  • 問題解決=アイデア=一石二鳥
  • アイデアを生み出す過程で持つべき倫理観



■問題解決=アイデア=一石二鳥

アイデアとは、逐次的な問題解決ではなく、ある問題について「一石二鳥」を狙うことと同義である。これはハックル氏がご自身の書籍で実証されている。「もしドラ」を売ることが、ドラッカーの「マネジメント」を売ることになったのだ。日本ドラッカー学会の会長を務めるなど、文字通り日本におけるドラッカーの第一人者である上田惇生氏が、「もしドラ」の出版にあたってこんなことをおっしゃったそうだ。

"「この本も、平岩外四になると思うんだ。つまり、この本は、ドラッカーの『マネジメント』を書いてあるからすごい――のではなく、その逆に、この本に書いてるから、ドラッカーの『マネジメント』っていうのはすごい――って、いつか、そう言われる時代が来るんじゃないかなぁ」"
[連載第34回]「もしドラ」はなぜ売れたのか?「唯一の奇跡(後編)」(2,274字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar258116

「もしドラ」は、これをはじめとした、幾つものアイデアの積み重ねの上に成り立っている。だからこそ270万部の大ヒットとなったのだ。どのようなアイデアが組み合わされているのかを、包み隠さず伝えるブロマガの連載は、書籍としても出版されている。

『もしドラ』はなぜ売れたのか?
http://amzn.to/1NHDlA5
※Amazonアソシエイトリンクを使用しています。

「もしドラ」は、いま話題となっているAmazonの値引きプログラムの対象となり、20%OFFで購入することができる。

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
http://amzn.to/1A9Vf8n

出版6社、発売後一定期間で値下げ アマゾンと組む
http://t.co/wEJfvxUqFv

■アイデアを生み出す過程で持つべき倫理観

任天堂のゲームづくりは「コミュニケーション促進」という意味で、プレイすることによる「一石二鳥」を適えている。だから「Splatoon(スプラトゥーン)」は大ヒットとなっている。しかしこれは、裏を返せば、「仲間はずれ」になることが辛いということも言える。任天堂では、それをエグいまでに煮詰めて制作しているのだ。

このように、出てきたアイデアにある種の残酷性が宿っているケースがある。クリエイターはこの現実にどのように向き合うべきなのだろうか。必要なのは「差別心」であるとハックル氏は説く。「透徹した高い倫理観」からくる「差別心」こそが、クリエイターを高みへと連れていくのだと。

"差別というのは、良くも悪くもそこにあり、その存在を認める以外ないのである。問題は、それを認めつつ、どう生きていくかということなのだ。"
差別とは何か?(2,400字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar823386


結局のところ、「差別してはいけない」という主張は、二歩くらいで行き詰まる。スティーブン・スピルバーグ、宮崎駿両監督の作品からは、彼らが「透徹した高い倫理観」をもって差別心を内包し、許容していることを学ぶことができる。

わかりやすいものを挙げると、『JAWS』においては、若い女性や幼い子供の残酷な死をセンセーショナルなものとして使うことであり、『魔女の宅急便』においては、キキのパンツを見せることである。後者については、宮崎駿監督が次のように発言している。

"「キキが最初の町で失敗するので、最後はどうしても町の中で、 それも地面の上でキキが何かをやらないとたとえ、 知り合った人間達とうまくやれるようになっても、 この映画としては終わらないんです。 町の中でパンツ丸だしになるということは、 絶対、最後の通過儀礼として、キキには必要なんですね」 "
※ソース紛失:宮崎駿監督がインタビューに答えている記事の切り抜きを紹介しているサイトから

宮崎駿監督は、人間としての価値の相対性を認めて、キキを未熟な人間として差別しているのだ。女子供と見て対等に扱っていないということがわかる。これは現代の「真っ当な」差別意識に照らせば、糾弾されてもおかしくない。

両監督がそのような咎から逃れることができるのは、ちゃんと「差別」しているから、ということに他ならない。ちゃんと差別すると、対比としてちゃんと美しさを描くことができる。人がいいと思うもの、好きにさせるものの記号にあふれ、「好きという感情」をさらけ出す障害を取り除き、フラットな映画としての魅力を極限まで高める。そうすることで、ひとつの作品のなかで、差別心をしっかり回収することができるのだ。

このクリエイションとしての「懐の深さ・器の大きさ」を拡張する「差別心」が、そのままクリエイターとしての生き方につながっていく。クリエイターは「差別はいけない」という安易な考えにおもねることなく、透徹した倫理観からその構造を見通し、「差別心」の痛みをもって自らの器を拡張していかなければならないのだ。

差別心を受け入れ、自らの器を拡張することについて書かれたハックル氏のブロマガの一部を紹介し、本稿を終えたい。
"人は、そういうふうに視点を増やしていくことによって、さまざまな問題に対して客観的な眼差しを得られるようになる。(中略)客観的な眼差しを持つということは、それだけ問題を解決しやすくなる"
教育考:その14「器を拡張するということ」(1,831字) http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar771594



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2015年6月27日土曜日

歴史を学び未来へ補助線を引く 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第十回


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年6月13日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第十回に参加したので、レポートをお届けします。

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いま、あらゆるクリエイターが「作る」ことの難しさの前に立ちすくんでいる。
混沌とした時代の価値観のなかで、正解を探り合うような様子見的雰囲気が漂っている。
宿題となっていた映画『ウォーリアーズ』で描かれたものから、この停滞から抜け出すヒントを探っていこう。

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  • 感覚的アプローチと思考的アプローチ
  • 歴史を学ぶ


■感覚的アプローチと思考的アプローチ

映画『ウォーリアーズ』から感じるのは、「作ろうとする強固な意志」だとハックル氏は言う。
多くの人は「作る」ことに対して乱暴になれない。
ほんの一部のシーンを除いてオールロケで撮影されたこの映画には、映像的な瑕疵が散見されるにも関わらず、歴史に残る価値が吹き付けられた。

時代的な幸運も遠因となってはいるが、ぎりぎりのところに踏み込んでいく覚悟がなければ、この作品が世に送りだされることはなかっただろう。
作品に対する情熱は、自分が辛いと思う状況に追い込んでいくことで高められるのだ。そしてその泥臭さや不完全さが胸を打つ。

同様な例として、幾つかのエピソードが紹介された。
・某騎手を感動させたAKBのスピーチ
・猟奇殺人被害者家族の心情
・某俳優の末期ガン発表記者会見

これらは、多くのコンテンツが子供だましに堕するなかにあって、過酷な状況下でまろび出る偶発的な美しさを持っているとハックル氏は言う。

さらに、漫画『ドラゴンボール』における、無自覚に生じた神話性が紹介された。
こちらはTwitterでも発言されている。


ツイート中で紹介されているハックル氏のブロマガはこちら
教育考:その22「神話に見る父親の教育」(2,242字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar808602


これらのいわば自然発生した価値とは対比的に、宮崎駿氏は神話の価値を認めた上で、そこから抜け出そうとするようなコンテンツ制作を行なっている。
このことをハックル氏は日本の里山を例に挙げ、美しい自然が天然と人工のバランスから生まれることを鑑みれば、偶発性を持つ感覚的アプローチと思考的アプローチの両方が必要なのだと説明する。

コンテンツは感覚的アプローチ(情熱)で熱し、思考的アプローチで冷ます、いわば焼き入れのような工程を経ることで歴史に耐え得る強度を持つに至るのだ。

■歴史を学ぶ

価値観が定まらない時代にあって、クリエイターが学ぶべきは「歴史」だとハックル氏は説く。
歴史を学ばずして時代の流れは読めない。時代の流れを読まずしてクリエイションは成り立たない。

"歴史というのは非常に重要なものであることが再認識できた。なぜ重要かというと、「時代の流れ」が分かるからである。"
なぜ歴史を学ぶ必要があるのか?(2,679字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar256188

ハックル氏は歴史を学ぶ重要性を、数々のブロマガやTwitter上でも言及し、ご自身も実践されている。
そして特に70年代後半に時代を読むヒントを見出そうとしている。
クリエイター塾でも、今回の『ウォーリアーズ』(1979年)、第八回・『家族ゲーム』(1983年)、第九回・『太陽を盗んだ男』(1979年)などを観てきた。

70年代は高度経済成長期とバブル経済の谷間で暗い時代だった。
その成れの果てに「金属バット殺人事件(1980年)」が起きる。にも関わらず、80年代の原宿文化、バブル経済に代表される享楽・狂騒の時代が幕をあけようとしている、夜明け前のような魅力が70年代後半にはあるとハックル氏は言う。

気分は暗い(鬱)のに、経済・社会には明るい(躁)兆しが見えているという状況は、まさに現在と重なるようにも思える。
クリエイターは過去の名作と現在に点を取り、未来のほうへその補助線を伸ばしていくのだ。





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2015年6月4日木曜日

事を成し続けるクリエイターとは 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第九回


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年5月23日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第九回に参加したので、レポートをお届けします。

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すべての人の人生に共通するテーマとは何だろうか。
成長、成功、事を成す。さらに言えば、「事を成し続ける」ことだろう。
では、「事を成し続ける」にはどうすればいいのだろうか。
宿題となっていた映画『太陽を盗んだ男』、『アダプテーション』で描かれたものと絡めながら見ていこう。


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  • 失敗の哲学
  • 悪口の美学
  • 分割された自分


■失敗の哲学


「失敗は成功のもと」という言葉がある。
ハックル氏は、プロ野球選手としても監督としても日本一に輝いた野村克也氏の「失敗と書いて成長と読む」という名言を紹介する。

事を成すには成長が必要であり、成長には失敗が不可欠なのだ。
更に言えば、失敗を意図的に作ることが必要だとハックル氏は説く。
ハックル氏は、普段から「人前で面白いことをする」と規定し、小さな失敗を繰り返すことで、「何がつまらないか」のピントを合わせている。失敗をマネージすることで、事を成し続けることに繋げるのだと言う。

映画『太陽を盗んだ男』最大の魅力は、歴史的資料としての価値だ。今では絶対に撮ることができないであろうアバンギャルド的手法が許された時代に、隔世の感を禁じ得ないとハックル氏は言う。時代ならではの要素を取り込むことを「時代と寝る」と表現するが、まさにこの作品は「時代と寝る」ことに成功した稀有なものとなった。
だがそれとは裏腹に、映画を「うまく撮り続ける」ことは難しい。長谷川和彦監督には傑作を作り「続け」られる能力まではなかった。それほどまでに「事を成し続ける」ことのハードルは高いのだ。ハックル氏はこの原因を「失敗力」がなかったのではと分析している。

■悪口の美学


失敗をマネージできるようになる過程で重要なのは、失敗している自分を客観視することである。失敗している自分と、その失敗に巻き込まれている人物とを俯瞰して観察するのだ。
そのような客観視を得るカギは「悪口」にある。なぜなら「悪口を言う」というのは、とりもなおさず人に関心を持って「判断」をくだすことだからだ。人を「バカ」と決めつけることが重要になる。

だがここにふたつの壁がある。
ひとつめは、人をバカと決めつけることが道徳的に良くないというもの。ふたつめは、自分もそういう側面があるかもしれないという考えだ。

クリエイターはこのデメリットを受け入れる必要がある。
80:20の法則からいえば、社会に存在するのは「盲目的なバカ80:客観性を持った人物20」というバランスになるため、クリエイターはマイノリティーとして、嫌われることを厭わない精神性を持つ必要があるのだ。

それに加えて自分のことは一旦棚に上げ、俯瞰の視点で他人を客観視できないと、自分も客観視できるようにならない。先ずは他人をバカにしてはいけないという道徳観を乗り越え、その俯瞰の視点に自分も入れることが必要なのだ。

さらに詳しくいうと、クリエイターへの道は、人が元来持っている、
「他人を悪く思う―――自分を良く思う」
という気持ちが、社会からの圧力やそれに対する適応を経て、
「他人を良く思う―――自分を卑下する」
ようになった後に、客観的な洞察の中から、
「他人を悪く思う―――自分を良く思う」
というところへ戻ってくることだ。
一周回って他人をバカと決めつけ、自分の能力の高さを正当に評価することで、客観性が認るのだ。

客観視すること、客観視の難しさとクリエイションとの関係については、ハックル氏のブロマガに詳しい。

[Q&A]早咲きと遅咲きの違いは?(2,631字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar803679


■分割された自分


では、このようにして身につけた客観性の先にあるものは、なんであろうか。
それは、映画『アダプテーション』に描かれている、「分割された自分」である。
この映画に登場するあらゆる人物が、脚本家の内面のうちのある一部分を投影しているのだ。そしてそれぞれの特徴を増幅させることで、人物造形が形づくられていく。
クリエイションに向かって深く潜って行くと、分岐した全ての自分に乗っかっていくことになる。そうしなければ作ることができないのだと、ハックル氏は説明する。

この様相は、筒井康隆氏著『虚人たち』でも描かれているし、ある特徴を増幅するという点については、松田優作氏の俳優としてのあり方がそれを良く表している。
松田優作氏が増幅したものは、自分のなかにある「人殺し」としての感情だった。

"深淵を覗き込んだ人間の顔というものを、我々は映画「ブラック・レイン」において見ることができる。この映画に登場する人殺しを演じた松田優作が、まさにそうした存在なのだ。"
週末に見たい映画#014「ブラック・レイン」(2,166字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar166834


このように、クリエイターとしての成功は、深く潜っていった先にしか見つけることはできない。そしてその過程でクリエイターが引き受けるべきものは恐ろしくもあり、興味深くもある。
ハックル氏が先のブロマガで紹介されているニーチェの言葉を引用し、本稿を終えたい。

"怪物と戦う者は、自分も怪物にならないよう注意しなければならない。深淵を覗き込む時、深淵もまたお前を覗き込んでいるのだ"




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第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
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2015年5月23日土曜日

俺はこれからお前たちを殴る!第二期岩崎夏海クリエイター塾 第八回 番外編


涙がとまらない。


その言葉に向き合うたびに、涙があふれ出る。


僕は、岩崎夏海クリエイター塾のブログを書くにあたって、自分の意見や感情をなるべく差し挟まないようにしている。
そこで話された事柄を、より良く説明できるような知識を偶然持ち合わせていた場合には、それをそっと並べさせてもらうこともある。しかし、自分がどう感じたかや、どう判断したかを論じることは、可能な限り控えるようにしている。

なぜなら、岩崎夏海クリエイター塾で話されることはすべて素晴らしいものとして受け取ることこそが参加する意味なので、僕の意見などというものは余分なものなのだ。
ろ紙で濾されて打ち棄てられるべきものだ。

それでいながら、今回の授業とそれに続く懇親会でハックル氏から発せられたものを、じぶんの中に素直に取り込もうとするとき、とてつもない「痛み」が僕を襲うことになった。
クリエイションに対する姿勢についてかなり強い調子で話されたのだが、その一字一句すべてを自分のこととして受け取った。他山の石とかそういうレベルではない。

そして、あの言葉が僕の横っ面をとらえた。


「クリエイションは命懸けなんだ!」


殴られたような衝撃を覚えた。
その痛みと、授業で話された内容をうまく分離させることができずに、今回のブログを書くのにかなり手間取ることになった。

思えば、岩崎夏海クリエイター塾での一年弱は、自分が「失敗」してきたのはなぜなのかを質す道のりだった。
高校中退、フリーター、ニート、挫折。
夢見るような、現実と向き合わない怠惰なる生活。
自分がいかに浅薄な人生を送ってきたのかが、やっと分かってきた。


ニコ生やブロマガでハックル氏にアンチコメントを飛ばす人間に言いたい。

「お前ら悔しくないのか!」

低い場所にとどまって、匿名性に隠された安全な場所から呪詛をぶちまけることで溜飲を下げることが、クズみたいな行為あることに気がつかないのか。
全うに人生に向き合う人の気持ちを害することが、自分の人生にプラスになると本気で思っているのか。
それでヘラヘラ笑って、無駄に毎日を過ごしていって、悔しくないのか。
成功を収めながらも、なおも自身を高みへとーーそして苦しみへと向かわせようとする人間性に触れて、悔しくないのか。


僕は言いたい。
いま、心の奥底から叫びたい。
「悔しいです!」
そう叫びたい。
僕もまた、低い場所にとどまって安穏としていた人間のひとりなのだ。


命懸けで生きられないのならば、殴られることも必要だ。


残酷な競争社会を生き抜くには 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第八回


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年5月9日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第八回に参加したので、レポートをお届けします。

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ハックル氏が4月25日にニコニコ超会議に出席されることになったため、一回分先送りされ、都合一ヶ月ぶりとなった今回の授業では、「すべてのコンテンツには明確に優劣をつけることができる」という残酷な現実をつきつけられた。


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  • 評価と価値の残酷な真実
  • 「あや」の中で醸成されるクリエイション
  • クリエイションで生きていくのに必要な「構え」
  • 残酷な競争社会を生き抜く



■評価と価値の残酷な真実


クリエイションに向かうとき、まず問題となるのはその方向性だろう。
・社会的な立ち位置に関係なく高みを目指す
・商業性と社会の中での役割を持つ
この配合でクリエイションの方向性と位置づけが変化する。

高尚、低俗、商業的、哲学的、などと作品を表わす言葉は無数にある。その様々な価値観の織りなすグラーデーションの中に位置づけられながら、凡百のコンテンツと一線を画すような、歴史に残る価値を持つかどうかは「賭け」に近いとハックル氏は言う。

作品にとって最も大きな摩擦係数を持つものは「時間」である。「時間」がコンテンツにとっての試金石となる。価値を持たないものはその存在感を減衰させ、逆に価値のあるものは磨かれて輝きを放ち続ける。
それに見合う強度を持ちうるかというのは、高いレベルの人間同士にしかわからない部分でもあるのだ。

"「音楽に勝ち負けはない」というのは、音楽を知らない素人の考え方で、それに習熟すればするほど、そこには厳密な「勝ち負け」が存在するということを知るのだ。この映画は、一流の音楽家しか知らないそのことを教えてくれているのである。"
週末に見たい映画#033「アマデウス」 (2,351字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar310446

時を越える価値を得たのは、モーツァルトであった。しかし、サリエリが宮廷楽長として評価され、高い社会的地位を確立していたこととは対照的に、モーツァルトが困窮のなかで35歳の生涯を終えたことを考えれば、価値と同時代の評価は必ずしも一致しないのだ。


■「あや」の中で醸成されるクリエイション


映画『アマデウス』では、サリエリに追い詰められていったからこそモーツァルトの芸術性が高められていったということが、裏テーマになっている。

"そのため、モーツァルトも引き裂かれの中に置かれることになる。人間的に困窮しつつ、さらなる素晴らしい音楽を作りあげていくのである。"
週末に見たい映画#033「アマデウス」 (2,351字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar310446

しかしながら、商業的な成功と価値のバランスはケース・バイ・ケースで、ドストエフスキーは「罪と罰」で商業的にも大成功しながら、歴史に残る価値を獲得した。
このような様態は、こと映画のようなアンコントローラブルな要素をもつコンテンツではさらに先鋭化する。

そのように、クリエイションは繊細なやりとりの「あや」の中で醸成されるのだ。クリエイターはクリエイションの繊細さを知り、それを扱うセンシティブさを持つ必要があるとハックル氏は説く。クリエイションに対する姿勢、構えそのものが作品に定着するのだと。
そして、それが面白さや価値を担保することにも繋がる。


■クリエイションで生きていくのに必要な「構え」


ハックル氏ご自身の例をみてみよう。
塾生とハックル氏は、岩崎夏海クリエイター塾に第一期と第二期に参加していれば、間もなく一年近くをともに過ごしていることになる。それでもなお仏頂面を貫いているハックル氏に対し、相好を崩されてもいいのではと、ある塾生の方が指摘されたそうなのだが、
「馴れ馴れしい態度には、なりようがない。」
とハックル氏はいう。

塾生と先生という関係だが、塾生はあくまで時間とお金を費やす顧客であり、塾生側がクリエイター塾への参加を辞するハードルは、どこまでも低いのだ。
そのような理由から、ハックル氏が授業に臨む際には、
「常に緊張している。」
という。この姿勢が、塾としてのクオリティを維持する。これがハックル氏のクリエイター塾に対する「構え」なのだ。

このような高潔さには畏敬の念すら抱くが、ハックル氏はこれは後天的に身につけることができるものであるとする。力を出すポイントを知ることが重要なのだ。

結果を出すプロになるために、最低限必要な5つのポイントがブロマガで紹介されている。


1.気を抜くポイントを知っている
2.貸し借りの感覚に長けている
3.「場所」から作る
4.本物のプロは弱点を克服する
5.本物のプロは意識が低い
本物のプロと生半可なプロの5つの違い(2,317字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar788022



■残酷な競争社会を生き抜く


クリエイターとは「生き方」に他ならない。これがハックル氏の掲げるクリエイター塾のあり方だ。
そして映画『アマデウス』はクリエイターの生き方をこれ以上なく描き出している。

[Q&A]クリエイターの生き方を描いた素晴らしい映画を教えてください(1,446字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar746985

クリエイターはクリエイションのもつ残酷さ、ひいては競争社会の残酷さを知り、その残酷さのなかで生き抜いていかなければならないのだ。
4月27日に発売されたハックル氏の新著『競争考』には、その生き方のエッセンスが余すことなく描き出されている。



この書籍は、ハックル氏が発行されているブロマガ(有料メルマガ)『ハックルベリーに会いに行く』で連載されていたシリーズで、岩崎夏海クリエイター塾に参加されている塾生の方がお勤めの出版社から上梓されていることもあり、僭越ながらレビューを書かせていただいた。
クリエイターならずとも、一読されることをお勧めしたい。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

最後までご覧くださいましてありがとうございます!


第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
http://blogger.naminoritaishi.com/p/huckleberry.html


2015年5月7日木曜日

ドジ井坂先生からのアドバイス サーフィンスクール・ワンデイトレーニング


みなさまこんにちは。
永遠のサーフィン初心者、波乗りたいしです。

先日、2014年9月23日に参加したドジ井坂氏主催のサーフィンスクール・ビーチスクールのワンデイトレーニングの様子をYouTubeにて公開いたしました。



これまでにも、新橋での陸上トレーニング、鴨川での海上トレーニングの様子をYouTubeやブログで公開し、その都度内容に誤りがないかをドジ井坂氏にチェックをしていただいていました。

そして今回は特別に、何とドジ井坂先生直々にアドバイスをいただけることになりました。
というのも、今回のトレーニングの内容が、ドジ井坂先生が長年サーフィンを教えている中で、最も勘違いが多く、教える側も正しく教えられていないという問題意識をお持ちの部分であるからなのです。
ここを突破できれば、初級者であれ中級者であれプロと同じ意識でサーフィンができますが、それができなければ「なんちゃって上級者」に留まります。

それでは、ドジ先生が動画前半と後半の内容ごとに書きおろしてくださったアドバイスを動画に続けてご紹介いたします。

まずは前半から。

最速ターンのテイクオフ ドジ井坂氏サーフィンスクールで初心者脱出!
ワンデイトレーニング前編 サーフィン:波乗りたいし


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今まで40年以上サーフィンを教えて、何度アドバスしても上手くいかない方の原因は、このみなさんの姿勢にあると考えています。自転車のフレームとサスペンションのバランスが前後左右にズレていては、高速で自転車走らせれば事故になりますね。
サーフィンなら、波の行きたいところにも行けない、身体がボードを操作できない状態で波に乗っているわけです。行きたいところへ行けないから、無理矢理ボードを動かして誤魔化しているサーフィンですね。
姿勢をチェックすれば、サーフィンのレベルはすぐわかります。

ターンの理論の映像は、初公開ですね。
今までの、巷にあふれているサーフィンテクニックの解説の多くは、岸からサーフィンを観た視点で、それも波の動きとサーファーの動きをごちゃごちゃに解説しています。
「サーフィン都市伝説」が生まれる原因です。
外見の車の動きを観ていても、操作方法がわからなければ車は正しく運転できません。

そこでサーファーの身体の動きだけを、理論に基づいて解説すると、サーフィンのターンは、このような解説になります。運転席にいる自分からの視点です。
ヨコ乗り系のスポーツは、ほぼ同じ理論です。
先日のインタースタイルでも、ヨコ乗りスポーツの基礎理論を初披露しました。

あなたの身体の動きは、どんなスポーツでもきちんとトレーニングしないと出来ない時代なんです。

ドジ井坂
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> 行きたいところへ行けないから、無理矢理ボードを動かして誤魔化しているサーフィンですね。
―まさにその通りでした。それが僕が感じていた「コレジャナイ感」の正体だったんです。

続いては後半です。

ハイラインを目指せ! ドジ井坂氏サーフィンスクールで初心者脱出!
ワンデイトレーニング後編 サーフィン:波乗りたいし




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腹這いのサーフィンの動画を観てください。ボードに立ってライディングして、これだけの時間――といっても数秒ですが、いつも波に乗っていられるでしょうか。
つまり、まともに岸まで波に乗るためには、ボードをコントロールできる能力が必要なのです。
それを体験するのも大切な練習です。
波とボードの関係を知りたければ、腹這いサーフィンが最も効果的なトレーニングです。

決してスパルタトレーニングではありませんよ。
スパルタだと感じたとすれば、それは波に対するあなたの意識です。
波と戦えばもの凄いエネルギーを使うのでスパルタに感じるでしょう。
でも波の力や動きを知るトレーニングだと考えれば、そしてその力を上手く利用できるようになれば、自然の力を自在に操れる、
つまり空気と風の力を使える鳥、水と波の力を上手く使える魚のセンス(能力)を得たことになるのです。
筋肉を使えばスパルタ。しかし頭とセンスを使えば動物の進化系ですね。

また、波の見た目を気にしているサーファーは多いですね。
でも井坂は昔から「波の表面の形はそんなに関係無いんじゃないの?」と思っていました。
見た目が良いだけですから、波の(表面が)悪い日は、最高の練習日と考えていました。
波の表面が悪いだけですから、見た目ではなく身体で波の力を感じる、いろいろなトレーニングが出来たので、それで僕は上手くなれたんだと思います。

世界中のトップサーファーに聞いてご覧なさい。
子どもの頃はどんな波でもサーフィン(練習)していたって誰もが言いますよ。
形の良い波は確かに素敵です。
その波を最高に楽しむには、波の悪い日や波の無い日に陸トレして、理論に基づいたいろいろな練習にトライできるから、良い波の日はその成果を出す最高のステージになるのです。

ドジ井坂
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> 決してスパルタトレーニングではありませんよ。
> スパルタだと感じたとすれば、それは波に対するあなたの意識です。
―いかに抗うかではなく、いかに利用するか。それを学ぶのがPST(フィジカルセンストレーニング)なんですね。


以上、ドジ先生からのアドバイスでした。
僕と同じように「コレジャナイ感」を感じている方、なかなか波に乗れない方、上達に行き詰まりを感じている方、ぜひドジ先生のスクールで、違いを「体感」してみてください!
YouTube動画をご覧になった方から、
「ドジ先生のスクールに参加して、非常にためになった」
「以前参加したことがあるが、また参加したくなった」
「興味はあったので参加してみたい」
などなど、メッセージいただいております!!


ドジ先生のビーチスクールのWebサイトはこちら
http://www.beachschool.com/

ドジ井坂のサーフィン・スクール―最新メソッドによるベーシックテクニック解説書 基本編
http://amzn.to/1aL0fs7

ドジ井坂(イサカ)のサーフィン修理工場(テイクオフトレーニングキット)
http://amzn.to/1GEik93


もしよければ、当日の様子をブログに書いておりますので、ご覧ください。
えっ?ライディング禁止令!?サーフィン初心者必見!ドジ井坂氏のワンデイサーフィントレーニング講座


それではみなさま、またあそぼーね!



2015年4月19日日曜日

赤コーナー、ぃわさきぃぃぃなつみぃぃぃぃぃぃ!! 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第七回


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年4月11日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第七回に参加したので、レポートをお届けします。

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今回の授業では、ハックル氏プロデュースで撮影された映画『小劇場のボクサーたち』の試写会が行われた。
この映画はぴあフィルムフェスティバル(以下PFF)に応募され、未公開が前提であることから、内容云々について論じることはしない。これまでと同様、クリエイションの「外郭」に迫る。

本日のメニューはこちら!

  • アンコントローラブルににじり寄る
  • 人生の集大成としての映画



■アンコントローラブルににじり寄る


岩崎夏海クリエイター塾では、課題として映画を見る。映画を見ることの意味は、それがクリエイションの本質に結びついているということにある。映画に触れることが、あらゆるクリエイションに波及するのだ。
そして今回、ハックル氏が映画を制作する中で導きだした、クリエイションの本質を表すのに最も適した表現は、「アンコントローラブルににじり寄る」というものだった。

映画はひとりでは作れない。
人同士の葛藤、取り巻く環境との摩擦、予期せぬ出来事、その過程で立ち現れるものの中でバランスを取ることこそがクリエイションの本質に近づくことなのだ。

"そういうふうに、映画の素晴らしさはしばしば偶然から生まれる。それは、意図してはなかなか作れない。"
映画とは何か?(1,805字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar767691


映画はリュミエール兄弟に発明された後、エイゼンシュテインの生み出した「編集」という技法によってその価値を飛躍的に高め、20世紀の一大産業となった。その後更に「CG」が発明された。CGが果たした大きな役割は、「アンコントローラブルの排除」であろう。
しかし映画の撮影は、CGによって粛々と執りおこなわれる作業のようにはならなかった。やがてCGを使った映像は廃れていったのだ。
映像が持つ廃れない価値は、むしろ人が演じるなかに表れるアンコントローラブルな現実を切り取る「虚実皮膜」にあることが、逆にはっきりしつつあるのだ。

"映像というのは、おそらくこれと同種の廃れない価値を持っている。それは、CGが発明されても廃れなかったし、3Dが発明されても廃れなかった。今後、ヴァーチャルリアリティが流行しても、けっして廃れないだろう。"
技術の進歩によって逆に技術に浸食されないものの価値が高まる時代(1,870字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar769771


■人生の集大成としての映画


ハックル氏はこれまでに二度、映画の制作に取り組む機会があった。
ところが、

・中学2年生のときに文化祭でクラスの出し物として映画を撮ることになった。撮影を終えたものの音がうまく取れておらず、アフレコによるナレーション芸で好評を博し難を逃れたが、映画として成功とは言えず。
・大学時代に友人2人をを引き連れエビ天(三宅裕司のえびぞり巨匠天国)参加を目論むも、友人をコントロールできずに挫折。

という具合に、二度に渡ってアンコントローラブルな出来事をいなすことができなかった。

その後ハックル氏が過ごした時間は、アンコントローラブルに対応する力を身につけるためだったと言っても過言ではないだろう。その結果、映画を「撮る」というよりも「掘る」という方がしっくりくるようになった。
PFFで賞を取ることと、映画を作ろうとする気持ちのバランスは、いつしか映画に内在する必然性に寄り添うようなものになった。ハックル氏は、第二期岩崎夏海クリエイター塾の課題となっていた映画同様に、「時代を切り取る」ことに腐心している。

『小劇場のボクサーたち』は、サイモン&ガーファンクルの名曲 『The Boxer』に着想を得て、都会(時代)の片隅で生きる人々にスポットライトを当てる作品となった。
時代を生きることはとても辛いことである。熾烈な競争を勝ち抜いていくことである。
時代を生きる人々と、時代を映し取ろうとするハックル氏。虚構と現実を幾重にも重ね、あるべき形に寄り添うとき、人智を超えた領域にTouchすることができる。
ハックル氏自身もまた、そのリングに上っていくボクサーなのだろう。






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第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
http://blogger.naminoritaishi.com/p/huckleberry.html



2015年4月17日金曜日

帰依する時代のクリエイション 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第六回


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年3月28日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第六回に参加したので、レポートをお届けします。

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今回の授業におけるビッグワードともいうべき一語を挙げるとすれば、それは「帰依」という言葉になるだろう。

「帰依」という言葉は仏教用語であるが、ここでは「大きなものに寄り添うこと」という意味で使う。クリエイションにおける「帰依」とはどんなものだろうか。クリエイターは何に「帰依」し、どこにたどり着くのか。
映画に帰依し、文学に帰依するハックル氏の姿、そして課題となっていたダスティン・ホフマン主演の2本の映画、『クレイマー、クレイマー』と『真夜中のカーボーイ』から、時代に帰依するということを学んでいこう。

映画『クレイマー、クレイマー』はハックル氏ブロマガ連載「週末に見たい映画」シリーズで紹介されている。

週末に見たい映画#24「クレイマー、クレイマー」(2,499字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar251234


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  • クリエイションにおける帰依
  • 時代への帰依
  • 離見の見を得る


クリエイションにおける帰依

まずは、ハックル氏の自主制作映画と執筆活動などの八面六臂の仕事ぶりから「帰依」について考えていこう。
前回のレポートブログでもお伝えした通り、ハックル氏プロデュースの映画がついに完成したそうだ。

【自主制作映画】完成しました! ― 源氏山楼日記
クランクアップしました! ― 源氏山楼日記
映画クランクインしました! ― 源氏山楼日記

これらのブログによると2月6日にクランクイン、1ヶ月強の撮影を経て3月13日にクランクアップ、編集を行ない3月20日に完成したとのこと。
ついで息つく間もなく10万字前後の書籍の執筆に突入、残り8万字(原稿用紙200枚)の原稿を5日間で書き上げたそうだ。北方謙三氏は20枚/日、筒井康隆氏は5枚/日とのことなので、かなりの執筆スピードであることがわかる。
毎日2000字のブロマガ連載のクオリティを落とすこともなく、10万字前後の書籍と10万フレームの映像と格闘するハックル氏には畏敬の念を禁じ得ない。

このスピードで執筆するともはや自分で書いているという感覚がなく、彫刻家・ミケランジェロの言を借りるならば、"あるべきかたちはすでに素材の内に現れており、それを丁寧に掘り起こすだけ"なのだとハックル氏は言う。
複数の締め切りを抱えることで、オーバーフローを引き起こし、フロー状態(無意識)に達する。そして映画にも文学にも存在する「あるべき姿」に到達する
この「あるべき姿への到達」が「帰依」なのだ。

「帰依」の例を挙げてみよう。
小津安二郎監督は、「演技の排除」に「帰依」した。演技の排除は、脚本と歌のようなセリフを練り上げることに繋がり、演技を封じられた役者陣はその内からにじみ出る個性に「帰依」し、完璧な絵と相まって奇跡の映画(映画について語るときに僕たちの語ること 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第四回 へのリンク)を生み出した。

これは白洲正子氏が能について言及していることと近いのではないだろうか。
"舞い手が個性を捨て、型通りに舞っていたとしても、やがてその人間の性格の芯とも言うべき部分が外に出てくる"というものだ。
「型」に「帰依」することが一周回って「個性」に繋がっていくというのは興味深い。


ハックル氏はどのように映画に「帰依」しているのか。
ある面では小津安二郎監督的であり、、ある面では『真夜中のカーボーイ』的であり、ある面では『フォレスト・ガンプ』的である。これまでに培ってきたすべてのことが「あるべき姿」を浮かび上がらせるのだ。

"脚本を書くとき、撮影をするとき、編集をするとき、常に「どうすれば映画になるか?」という問いがある。(中略)今回ぼくが作った「小劇場のボクサーたち」は、「映画とは何か?」という問いに対するぼくの回答のような作品となったのだ。
自主制作映画を作った(2,006字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar763086


お分かりの通り、生半可なことでは「あるべき姿」や「無意識の領域」には到達することができない。
中島らも氏には酩酊状態となり記憶を失い、朝には書いた記憶のない80枚の原稿が机のうえに置いてあるという逸話があるそうだ。
これはかなり特殊なケースと思っていいだろうが、クリエイターは某かの方法を以って意識と無意識の分水嶺をめざし、無意識の領域へと自分を持っていく必要がある。そのことには疑いを挟む余地はない。
そしてそれこそが、向き合う対象に「帰依」することとなり、更には岩崎夏海クリエイター塾が掲げる「クリエイションは小手先の技術ではなく生き方そのものである」という考えにつながっていくのではないだろうか。


時代への帰依

映画には歴史に名を残す作品と、失われていく作品がある。
もちろん、今回の課題となった2作品は前者に属する。両作品に主演しているダスティン・ホフマンの存在がそれを可能にしていることは、疑いようもない。
ではなぜ、ダスティン・ホフマン主演のこの2作品は、文化的資産となり得たのだろうか。

ハックル氏はダスティン・ホフマンが「時代に帰依」した存在であるとした。
ここで重要になるのが、「時代に帰依」することと、「時代に飲み込まれる」ことの明確な差異である。
その違いはどこにあるのだろうか。変化する時代の激流に流されることなく「帰依」するためには、どのような視点が必要なのだろうか。

それを明らかにするため、ひとまず「時代に飲み込まれる」ことについて考えてみよう。
『真夜中のカーボーイ』で描かれたものは紛れもなく当時の「現代を生きる若者」だった。現代を生きるということは、良くも悪くも世知辛さに身を投じることなのだ。利己的で無知な主人公は、時代に飲み込まれ、その世知辛さに翻弄される。
しかしながら紆余曲折の後、主人公は自分自身の執着を「リリース(※)」する。その様こそが「時代に飲み込まれる」ことがどういうことなのかを表象し、多くの鑑賞者にカタルシスをもたらすのだ。
つまり、時代に飲み込まれないためには、「リリース」という概念を捉えることが重要になる。
(※理想の状態を極限まで目指しながら、最終的には折り合いをつけて現実に寄り添っていくこと)

ダスティン・ホフマンに話を戻そう。
折しも『クレイマー、クレイマー』の撮影中、ダスティン・ホフマンは私生活においても離婚係争中であった。普通であればその状態で離婚とその裁判を扱う映画に出演するなどということは考えられないが、ダスティン・ホフマンは、あまつさえ脚本やインプロヴァイゼーションの部分でも積極的に参画した。時代の変化によって、人と人との関わりが変容していくのに翻弄されながらも、それを映画という形で正確に写し取ることに尽力した。そのことがダスティン・ホフマンに「俯瞰」を与えたのだ。

そう考えると、「リリース」「俯瞰」という2つの要素が、「時代への帰依」をもたらし、二つの作品を名作へと押し上げたということができるだろう。


離見の見を得る

では、クリエイターが「リリース」と「俯瞰」を手にするにはどうしたらいいのだろうか。
それには「離見の見」が有効になるだろう。「離見の見」はハックル氏ブロマガ連載「競争考」で何度も紹介されている、能の大家、世阿弥の言葉だ。

競争考:その30「メタ視点の鍛え方」(2,145字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar666972


この記事はクリエイターとして生きていくためには、「メタ視点」を鍛える必要があるとする観点から書かれている。そしてこの「メタ視点」は、前述の「リリース」と「俯瞰」の複合概念とも言えるだろう。更にそのメタ視点を鍛えるためには「離見の見」が有効であるとする。つまりクリエイターとして「帰依」に至るためには、「離見の見」を理解することは欠かせないのだ。

時代が変化を始めたのはいつなのだろうか。いや、変化しなかった時代などついぞなかった。ただ、変化のスピードは、ますます早くなっている。それに対応していくためには、自分自身の生き方を変えていかなければならないのだ。
繰り返して言おう、クリエイティブは小手先の技術ではなく生き方そのものである


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


最後までご覧くださいましてありがとうございます!

このブログを書いている最中に、記事の中で紹介したハックル氏のブロマガ連載「競争考」が、書籍になることが発表されました!
出版元は何と岩崎夏海クリエイター塾に参加されている塾生の方がお勤めの出版社ということ。素晴らしいです!早速予約しました!










またあそぼーね!

第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
http://blogger.naminoritaishi.com/p/huckleberry.html



2015年3月22日日曜日

努力アピールと解体されるパラドックス 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第五回


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年3月14日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第五回に参加したので、レポートをお届けします。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


今回の課題は、映画『風と共に去りぬ』。
ハックル氏ブロマガの「週末に見たい映画」シリーズで、「映画史に残る傑作」として紹介されている。

週末に見たい映画#34「風と共に去りぬ」(2,178字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar328286


今回は『風と共に去りぬ』と、ハックル氏プロデュースの自主制作映画『小劇場のボクサーたち』(※)への取り組みから導出された、クリエイティブにおける勘所に焦点を当てていこう。

(※)このレポートを書いている最中(3/21)に映画が完成したとのブログが公開された。
【自主制作映画】完成しました! ― 源氏山楼日記

岩崎夏海クリエイター塾においてクリエイティブを学ぶとき、映画を始めとしたコンテンツそのものよりも、それを取り巻く「外郭」について語られることが多くなる。
それは、ものごとを上のレイヤーから見おろす視点を獲得することに他ならない。
しかしながら、そのレイヤーの正体についてかんたんな言葉で言い表すことはできないため、八方手を尽くして説明することになる。そのとき映画は、メディウムとしての役割を担うのだ。


本日のメニューはこちら!


  • リリース
  • 一周回る
  • 矛盾と嘘



リリース
映画『風と共に去りぬ』は原作からして、文学としての価値が高い。

"原作の小説なのだけれど、これは文学史に残る金字塔だ。もはや永遠に廃れることはなく、格付けでいえばトリプルAの作品である。「ハムレット」や「ドン・キホーテ」と、ほとんど同列といって差し支えない。実際、書かれてから90年近くが経つけれど、いまだに読み継がれている。"
週末に見たい映画#34「風と共に去りぬ」(2,178字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar328286


それと同時に、小説で表現されているものを映画として表現することの難しさが立ち現れるのだとハックル氏は言う。多くのクリエイターはこの事態に直面してきただろう。
限界寸前までこだわる過程で、どうしても理想との隔たりを埋めることのできない局面を迎えることになる。
すぐれた審美眼を持つがゆえに、それに適う作品をつくり上げる道の途上には、あらゆる障害が待っているのだ。

そこでクリエイターに求められるのは、理想の状態を極限まで目指しながら、最終的には折り合いをつけて現実に寄り添っていく「リリース」のポイントを知ることであるとハックル氏は説く。
ぎりぎりの選択を自分に課し、その上で、あるポイントで執着やこだわりを捨て去るのだ。その瞬間に素材が活き始めるのを感じとることができる。


一周回る
前項の「リリース」に付随する概念として、ハックル氏は「一周回る」という表現を提示する。「一周回る」とはどういうことなのだろうか。
最近ネット上で話題になっていた、百田尚樹氏のケースから紐解こう。




努力アピールの否定から二年が経ち、「一周回って」努力アピールをする百田氏を揶揄する人間が散見されたが、ハックル氏はむしろこれを成長の証と看破した。
さらにハックル氏は過去にご自身のブロマガでこんなことを書いている。結果を出すためには「伝説」が必要であるが、「伝説」をどのように演出するかと言う視点で書かれた2012年の記事である。

"まず、カッコつけることそのものはカッコ悪い。だから、あえてカッコつけることもまた、カッコ悪い。
しかしながら、「あえて」カッコつけるということは、実はカッコ悪いということが分かっていながらやっている行為なので、実はカッコつけていない、ということもできるのだ。
つまり、あえてカッコつけることは実はカッコつけていない行為なので、つまりは一周回ってカッコいい。"
伝説の作り方(2,632字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar13731


この記事の「カッコつける」を「努力アピール」に置き換えると分かりやすいだろう。

"まず、「努力アピールする」ことそのものはカッコ悪い。だから、あえて「努力アピールする」こともまた、カッコ悪い。
しかしながら、「あえて」「努力アピールする」ということは、実はカッコ悪いということが分かっていながらやっている行為なので、実はカッコつけていない、ということもできるのだ。
つまり、あえて「努力アピールする」ことは実はカッコつけていない行為なので、つまりは一周回ってカッコいい。"

「一周回る」イメージを掴むことは、普段の生活のなかでも取り組むことができる。
具体的な取り組みを三つほど紹介しよう。

・前フリでトークのハードルを上げる
お笑いやトークの教訓として、「面白い話があるんだけど」という前フリをしてはいけないというものがあるが、あえて前フリでハードルを上げ、その上で相手に面白いと思わせる話し方をする。

・ネジをもう半周回す
一時期ネット上のバズワードになっていた「意識高い系」が半周回って下火になっているが、そのネジをさらに半周回して、あえていま意識高い取り組みをする。

・善行の修練
普段から行なう善行を決め、「いい人に思われたいと思っているようには思われたくない」という気持ちを乗り越えて、人前でも善行を行なう。


■矛盾

人は矛盾なしに生きていけない。人は矛盾とともに生きている。
このように言われてピンとくる人は、あまりいないだろう。ここでいう矛盾とは「コンテンツとしての物語」と「神話としての物語」の中に立ち現れるものだ。もっとも本質的な矛盾は「嘘と真実」であろう。

この矛盾の意味するところを、まずは「コンテンツとしての物語」から見てみよう。
ところで、歴史に残る名作に関する面白い共通点がある。
『ドン・キホーテ』を著した、ミゲル・デ・セルバンテスに肩を並べる作家とも評されている、ガブリエル・ガルシア・マルケスの代表作『百年の孤独』と、『風と共に去りぬ』が、作者の祖母による「語り聞かせ」に端を発していることだ。

これにどんな意味があるかというと、『風と共に去りぬ』では南北戦争という現実に、マーガレット・ミッチェルの祖母が受け取った「印象」という嘘が入り込み、さらにマーガレット・ミッチェル自身の「想像力」という嘘が混ぜ込まれたのだ。
想像力とは「嘘と現実を織り交ぜる力」であり、現実が嘘と混じり合うところに物語の魅力が表出するのだ。

ハックル氏はこの考えを、太極図を用いて説明する。



太極図が示すものは、「嘘と真実が入り混じった様相」、そして「嘘の中にこそ真実があり、真実の核心は嘘である」という概念だ。

さらにハックル氏は、近松門左衛門の芸術論として聞き伝えられている「虚実皮膜」という言葉を引いて敷衍する。
"〈芸といふものは実と虚(うそ)との皮膜(ひにく)の間にあるもの也。……虚にして虚にあらず,実にして実にあらず,この間に慰が有たもの也〉"
虚実皮膜論 きょじつひまくのろん ― コトバンク


嘘と真実が混在し、その境界が曖昧になったところに、コンテンツの価値が存在するのだ。

続いて、「神話としての物語」もまた「嘘」が重要な意味を持つ。
神話の原型は、「雷の正体」などと言ったものであるが、

"雷鳴を「神鳴り」ということからもわかるように雷を神々のなせるわざと見なしていた。"
雷 ― Wikipedia

これはもちろん「嘘」である。だがそれに対しての知識が乏しいために、恐れを抱く人間はこれを「真実」として受け取り、自分を安心させる。

現代においてもこれと同様に様々な物語が必要とされ、「真実」として流布されていく
人々は、この矛盾のなかに、否応なしに巻き込まれながら生きていくことになる
これが、この項の冒頭で言及した「人は矛盾なしに生きていけない」という言葉の立脚点である。

そして、現代において最も人々が巻き込まれている物語にはどのようなものがあるだろうか。
それは「すっぱいブドウ」の寓話であろう。
すっぱい葡萄 ― Wikipedia


しかしながら、人々に本当に付与されるべきは、「すっぱいブドウ」の物語を「解体」する物語なのだ。


"「ブドウ」が手に入らないのは、それが「すっぱい」からではなく、「自らの能力が足りない」からだと受け止められたとき、人間の心は浄化されたようなすっきりとした気持ちを味わうのだ。アリストテレスは、その状態をカタルシスと呼んだのである。"
ライトノベルの書き方:その10「物語の解体方法」(1,912字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar751307


ここで言う「ブドウ」は人によって、成長かもしれないし、金銭かもしれないし、または名誉かもしれない。だが多くの人は、ブドウが手にはいらない責任を自分の側に引き寄せることができずに「嘘」に騙され続ける。

「すっぱいブドウ」は自分が縋りたい「嘘」の物語であり、クリエイターはその物語の核心にある「嘘」をメタ視点で認知できなければならない。「嘘と真実」をそのまま受けとるには修練が必要なのだ。そして岩崎夏海クリエイター塾はその修練の場ともなっている。

修練を積んだ先に見える真実は、世知辛いものであるに違いない。実は人を幸せにするのは「嘘」の方なのだ。
ハックル氏はこの状態を「楽しくないことが楽しい」と、自嘲めいてはいるが、クリエイティブに対する覚悟が仄見える言葉で言い表わす。
そんな心持ちを表すような、ハックル氏がTwitter上でシェアされていた記事を引用し、本稿を終えたい。




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第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
http://blogger.naminoritaishi.com/p/huckleberry.html


2015年3月13日金曜日

映画について語るときに僕たちの語ること 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第四 回


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年2月28日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第四回に参加したので、レポートをお届けします

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今回の課題は歴史的な名監督、小津安二郎監督の遺作でもある映画『秋刀魚の味』。
課題となった映画が、ハックル氏ブロマガの「週末に見たい映画」シリーズで紹介されている。
週末に見たい映画#29「秋刀魚の味」(2,738字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar286291

前回授業での課題発表時に「奇跡のような映画」と紹介されたこの映画は、なぜ奇跡となりえたのか。「時代の変化」「演技の排除」「極限まで高めた審美眼」という3つの視点で迫っていこう。

本日のメニューはこちら!

  • 時代の変化
  • 演技の排除
  • 極限まで高めた審美眼



時代の変化
ブロマガでも今回の授業でも「時代の変化」が『秋刀魚の味』のテーマのひとつとして取り上げられた。
そして「時代の変化」を語る上で重要なトピックとなったのが、「集団の形成」である。社会の中で、人はなぜ、どのように集団を形成するのだろうか。

ハックル氏は、渋谷の街でふと目にしたカップルの距離感、表情、しぐさなどの馴染んだ様子に、かつて繰り返したある「問い」について思い出したそうだ。
それは、「なぜ女性と付き合わなければならないのか」という問いであった。初恋の芽生え以降、恋をするべきという強迫観念に近い感情にとらわれ、なぜ恋愛についてまわる諸々の高い壁を乗り越えてまで、伴侶を獲得しなければならないのかと。

往時のハックル氏が達した結論は、「社会的ソリューションである」というものであった。
二人以上の集団を形成したほうが、社会を生きていく上で行動の幅が広がるのだ。有り体に言えば組んでいないと損をする。しかも男女のつがいであれば、SEXというストレス軽減のオプションつきなのである。
次の画像は、黒澤明監督の映画『七人の侍』のワンシーンであるが、ここでも「夫婦」という集団が、社会のなかで効率よく実りを得られるということが示唆されている。

映画『七人の侍』より

このような問い立ては、ある意味では馬鹿げているようにも思える。多くの人がこのようなことは考えないか、考えたとしても浅はかなものにとどまって満足する。
しかしながらクリエイターとして生きる者は、社会の様態の本質がわからず、突き詰めたりもせず、後づけの理由にたぶらかされたりしている世間一般に足並みをそろえるわけにはいかないのだ。

ところで、集団形成の本質とこの映画で描かれている「時代の変化」に、どのような関連があるのだろうか。そのヒントがハックル氏のブロマガにある。

"本質を見極めるための最も基本的な方法は「観察」である。物事をじっと見る(中略)「過去と現在との差異」を見比べるのである。観察を、時間軸の中で行う。"
本質を見極める方法(2,147字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar674107


『秋刀魚の味』には過去と現在の差異を「観察」するための「歴史的価値」がある。集団を形成するための「結婚」というもののとらえ方が、大きく変化していく様を描いているのだ。
多くの人は、この映画で描かれている結婚観に「こんなの今ならありえない!」「当時だったら、こういうのもありえるんだろう」という反応を示すだろう。ここに「普通の人」が越えられない壁がある。
小津監督は、「これはいつか失われるだろう」という予感のもとに丹念に描き、その変化に永遠性を根付かせることに成功したのだ。

あるいは、小津監督の「女性とはなにか」という問い立てからなる、「女性の在りよう」を描いた映画でもあるだろう。というのも、女性が集団の中でどのような役割を果たすのか、というのは社会の変容とともに大きく変わってきたからだ。その変化の過程を正確に描き出そうとすることが、すぐれた映画を生むのだ。そこに小津監督のしたたかさ、精神の気高さを感じるとハックル氏は言う。

クリエイターは「時代を見る目」という刀を研ぎ澄ませる必要がある。クリエイターとして現代をどう読み解くのか。『秋刀魚の味』には時代を読み解くコツも隠されている。女性を見ること、街を見ること、どんなものが社会の中で必要とされているか、人々がどんな服を着ているのか。それらは全て、流れを成す時代の一片となるのだ。


演技の排除
『秋刀魚の味』の特徴は、役者陣による演技にある。ともすれば「演技下手」にも見えかねないものだからだ。
彼らは、日本の映画界が最も盛り上がっていた同時代の激戦を勝ち抜いたエリート俳優であり、数多くの名作に出演もしている実力者揃いである。にも関わらず、一見すると淡々として抑制的に感じてしまうような演技が、全編を貫いているのだ。

S魚氏は、料亭で出された鱧や壁に掛けられた桔梗の花から季節が夏であることを割り出す。だが、役者陣の演技からは夏であることを伺わせるような場面は一度もない。同時代に発表され、前々回授業のテーマともなっていた、黒澤明監督『天国と地獄』において、設定が夏の映画を冬に撮ることで夏の演技を引き出していたこととは相反する考え方であるとした。

これに対してハックル氏は、小津安二郎監督の演技に対する明確な意図に言及する。
それは、
「棒読みさせる」
「演技をさせない」
というものである。
特に「間」による演技をさせないということに注力しており、老若男女すべての登場人物が同じ間で話しているのだ。これが、鑑賞者に読み解きを促す。
『秋刀魚の味』では、「セリフで物語を進行させる」ことに尽力している。巧妙な会話のやりとりで登場人物の過去や思想が詳らかにされ、そのキャラクター造形を浮き彫りにしていくのだ。

ところで、『秋刀魚の味』における演技が「淡々として抑制的」と書いたが、リズムよくラリーを繰り返し、ある時点で劇的に分岐していく会話は非常に派手な心象を描きだしている、というのはハックル氏の言である。
その例として挙げるのが、物語の終盤、主人公である笠智衆演じる父親が、岩下志麻演じる娘――失恋直後の遣る方無い思いであろう娘に縁談を勧めるシーンだ。
これは娘を慮っているようで全く娘の気持ちを考えない親と、それに付き従う健気な娘という構図を描いた、非常にスリリングな場面となっている。

閑話休題、前述の『天国と地獄』においても、決定的な場面であえて演技をさせない黒澤明監督の「相手を殺す」演出について言及があったが、「演技をするのが役者だ!」という並み居る実力者を御する小津監督の胆力たるや想像を絶するものがある。
同時代に活躍した歴史的な名監督に垣間見る、方法論こそ違えどその本質は似通っている演出手腕、というのは決して偶然の賜物ではないだろう。


極限まで高めた審美眼
映画が映画であるべき理由とは何だろうか。
それは「絵の美しさ」をさしおいて他にないとハックル氏は言う。それは前提であり、土台である。前景、中景、遠景からなる奥行きと、画面を構成するグリッドの美しさが、映画におけるすべての基礎となるのだ。

『秋刀魚の味』では、パン、ティルト、ズームといったカメラアクションを排除し、さらに会話のシーンのほとんどを人物を中心に据えたバストアップショットで撮影している。
被写体を中央に位置すると、難しいバランスになる。得てして凡庸な構図になってしまうのだ。ところが『秋刀魚の味』ではそうはなっていない。絵の作り込みに気の遠くなるような労力をかけていることがわかる。まさに命をかけて映画を撮っている証左であるとハックル氏は言う。
画面に映し出されるすべてのものに気を配るというのは当然のことのようにも思えるが、「絵」に対する高い審美眼が備わっていなければ、その試みはすべて徒労に終わるのだ。

川の流れは、その流れの中にあってこそ意味を持つ。したがって流れの中から無造作に汲み取ってみても、そこにあるものは流れを失った、ただの水である。その流れを正確に写し取るためには、まごうことなき審美眼、技術、思索が高いレベルで結合されている必要がある。

ここでハックル氏の推薦図書、審美眼とバランスを学ぶための一冊として紹介されていた、赤瀬川原平『印象派の水辺』のある一文を引用したい。

"印象派の絵には、絵画の行き着く最終地点があり、同時に絵を描こうという気持ちの原点がある。その二つが無垢の形で結合していて、ほとんど永遠の気持ち良さが光っているのだ。"
赤瀬川原平・印象派の水辺 http://amzn.to/1AuseSl

この意味で『秋刀魚の味』は、まさに映画という表現の行き着く先ともなっており、また映画を撮ろうとする思いの原点があるのではないだろうか。儚く移り変わっていく時代の変化を、強靱な意思と確かな技術でフィルムに焼き付け、記録以上のものを後世に持ち運んでいくのだ。
そして凡百の映画とは一線を画す『秋刀魚の味』はまさに映画史における「奇跡」であり、それを岩崎夏海クリエイター塾という場で「味わう」ことができる喜びを噛み締めたい。

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2015年2月27日金曜日

お前のものはオレのもの!?第二期岩崎夏海クリエイター塾 第三回

皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年2月14日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第三回に参加したので、レポートをお届けします。

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今回の授業に先立ち、映画『フェリスはある朝突然に』を観て、構造を見抜くプレゼンテーションする、という課題が与えられた。

課題となった映画が、ハックル氏ブロマガの「週末に見たい映画」シリーズで紹介されている。この映画は、ハックル氏が今までに見た映画に順位をつけたとき、「第3位」にランクインしたものだ。


週末に見たい映画#015「フェリスはある朝突然に」(2,096字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar184602

週末に見たい映画#43「年末年始に見たい映画5位から1位」(2,807字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar422132


本日のメニューはこちら!

  • 桃太郎の非対称性と悪の規定
  • 「幻視/Vision」による自己と他者の峻別
  • シンボルとしてのフェラーリ
  • フェリスの果たす役割




桃太郎の非対称性と悪の規定
プレゼンテーション前にハックル氏のフリートークがあり、「桃太郎の非対称性」と「悪の規定」についての話があった。

「桃太郎の非対称性」について端的に言うと、鬼が悪と規定され、桃太郎によって滅ぼされることの蓋然性が全く説明されていないということだ。
桃太郎は、正当な理由もなしに鬼ヶ島へ攻め入って鬼を退治し、あまつさえ鬼の財宝までも持ち帰る。なぜ、このような返報性のない理不尽な物語が、最も有名な昔話となり、人の心を打つのだろうか。
それは、人が「交換」の概念に縛られているということから説明できる。

「交換」とはどのような概念だろうか。
それは、「おっぱいの大きな女性は頭が悪い」とか、「障害がある人は心が清い」といったものだ。人の判断力は、このような「交換」に縛られている。それゆえに「交換」が成り立たないケース、「非対称性」に興味関心を抱くのだ。

それと同時に、人は得体のしれない「絶対悪」を必要としている。渇望と言ってもいい。この渇望が「悪を規定する」ことを促す。
桃太郎で言えば鬼であり、歴史的にはヒトラーや東條英機など、実在の人物も挙げることができる。

日本には桃太郎の「非対称性」「悪の規定」が実際に応用された事例がある。それが第二次世界大戦だ。

"桃太郎は「鬼畜米英」という鬼を成敗する子としてスローガンに利用された"
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E5%A4%AA%E9%83%8E

当時の日本国民の大多数は、戦争が起きることを強く望んでいた。そこで「鬼畜米英」という悪を規定することで、戦争という物語がぐっと魅力的なものになり、人々は戦争に酔いしれた。

しかし、結果的に日本は負けてしまった。生き残った日本人は、戦争に突き進んで多くの人命が失われたことを、激しく後悔した。ところが、日本人は自分の悪さを受け入れることはなかった。戦後のアンケートで、国民の70%以上が「東條英機に責任あり」としたのだ。日本国民は、手のひらを返すように別の悪を規定し、「戦後」という物語を紡ぎ出していった。

クリエイターは、このように世の中を相対的に見ることで、多くの人が見過ごしている非対称性や規定された悪を「ものごとには理由がある」という視点で分析し、自らを利することが求められるのだ。


「幻視/Vision」による自己と他者の峻別
それでは、ここからは前回同様、塾生による映画『フェリスはある朝突然に』(以下、『フェリスは~』)の構造を見抜くプレゼンテーションと、それに続くハックル氏の解説から、クリエイションの本質に迫っていこう。

『フェリスは~』において最も特徴的なのは、主人公であるフェリスが、画面のこちら側に向かって語りかけることにあるだろう。塾生S山氏は、ジョン・ヒューズ監督が、シカゴの街で繰り広げられるパレードでのシーンを撮りたいがために、その不自然さを隠す目的でこの手法を採用したのでは、と指摘する。

ここで、「監督が撮りたいもの」という言葉を正確に捉えるために、一旦枠を広げる必要がある。塾生の間での評価が分かれた『フェリスは~』ではあるが、それぞれに魅力を感じる部分があった。シカゴの街という「箱庭」を縦横無尽に遊びまわるフェリスや、シカゴの街そのものに惹きつけられるのだ。

この魅力は、一体どこから湧き上がってくるものなのだろうか。『フェリスは~』で描かれているものは、全て監督の個人的な欲求なのだろうか。前項の例に倣えば、東條英機は自分の戦争欲を叶えたかっただけなのだろうか。そうではない。当時の日本国民は、戦争を渇望していたのだ。もちろん戦争とクリエイションは分けて考える必要があるが、自己の欲求と他者の欲求はどのように峻別されるべきなのだろうか。

それをハックル氏は「幻視/Vision」として説明する。クリエイションにおける「幻視/Vision」とは、製作者の審美眼を以て現下の社会の正鵠を得ることだ。高い審美眼を持つ者は、自身の欲求と他者の願望を重ねあわせて見ることができるのだ。
Visionを得るには、「離見の見」という概念を理解することが必要だ

"世阿弥は、その有名な「風姿花伝」という教えの中で、「離見の見」という概念を説いた。
これは、実際に舞う際に「集中している自分」と、それを離れたところから見ている「客観的な自分」というものを、同時に持たなければならない――というものだ。"
競争時代を生き抜く方法♯4「繊細さと勇気を同居させる」 (2,049字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar358728

「離見の見」とは、なにかものごとに執着している自分と、その自分を離れたところから見ている自分を同居させることである。クリエイティブな局面で、何かを作りたいと思って息巻く自分を、冷静な視点で見つめるのだ。
そのように執着をメタ視点で見ることで「自分にはこういう執着があるのか」という気づきがある。ではその執着を切り離せないのはなぜか、といったように徹底的に自分を客観視していく。これが「幻視/Vision」を得る道となるのだ。


シンボルとしてのフェラーリ
塾生K上氏は、『フェリスは~』の中に「キャメロン(主人公の親友)=Ferrari」という構造を見い出した。ハックル氏はそれに対し、シンボルが物語や人間そのものに与える影響の大きさは計り知れないとした。

例えば、インディー・ジョーンズにとってのシンボルは「帽子」であった。



また、ローマ時代においては銀鷲旗(アクイラ)は軍団への所属の象徴であり、カエサルの紅の大マントは決戦の象徴であった。
人は自己のアイデンティティーがシンボルに置き換えられるとき、承認欲求が満たされるのではないだろうか。それゆえに登場人物がシンボルに紐つけられるのをみたとき、感情移入を促される。
ものに魂が宿るというのはどういうことかを知る好例である。


フェリスの果たす役割
前述したように、この映画は主人公であるフェリスが画面の向こう側から語りかけてくるという、特徴的な形式を採っている。
虚偽と現実の狭間を乗り越える存在としてのフェリスが、『フェリスは~』のなかで果たした役割についてどんなものが挙げられたかをみていく。
塾生のプレゼンテーションの中から抜粋すると、

K谷氏:シカゴの街を案内するホスト役
N谷氏:言って欲しいことを言ってくれる
Y脇氏:「ものごと」を知っていて、他者に成長を促す存在

などが挙げられた。
これらは『フェリスは~』のもつ荒唐無稽さを受け入れられれば、という条件付きではあるが、映画への没入や登場人物への感情移入を促すという点で通底している。
ところが塾生S木氏は、最後の最後で鑑賞者を「突き放す存在」としてのフェリスという側面に光を当てた。
フェリスはエピローグで、「It's over, go home.」と鑑賞者を突き放す。そしてS木氏は、このセリフにひょうきん族のエンディングテーマや、幼き日の「5時の鐘」との同一性を見い出した。

『フェリスは~』の鑑賞者は時間と空間の移動に加えて、映画的な嘘と現実の境を行きつ戻りつすることで、この映画に没入する。ところが最後の最後で横面をはたかれて目を覚ませといわれるのだ。そして現実へと引き戻される。
ハックル氏はこれに対し「商売女」の魅力との相似形を指摘する。彼らは、楽しい時間を過ごしたあとで冷たく突き放すことで、より深いコミットを得るのだ。

そして何より、映画という箱庭から現実世界へと引き戻すことは、非常に重要な意味をもつのではないだろうか。
感情移入・コンテンツへの没入と、その世界から現実に戻ることの重要性を示唆した、アメリカのコメディ番組の一幕を抜き出した動画を紹介し、本稿を終えたい。



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第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
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2015年2月10日火曜日

作品を見るときに内容を見てはいけない!? 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第二回


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年1月31日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第二回に参加したので、レポートをお届けします。

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今回の授業に先立ち、映画『天国と地獄』と『スティング』を観て、美しかったところをどちらか一方の映画からプレゼンテーションする、という課題が与えられた。
各々のプレゼンテーション後にはハックル氏からプレゼンテーションの評価やその内容を掘り下げての解説があり、様々な角度から、「換骨奪胎」における「構造を見抜く」ことが敷衍された。

課題となった映画が、ハックル氏ブロマガの「週末に見たい映画」シリーズでそれぞれ紹介されている。

週末に見たい映画#006「天国と地獄」(2,662字)※有料記事です。 http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar47482


週末に見たい映画#26「スティング」(2,288字) ※有料記事です。
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar265556


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  • 「なにを描くか」よりも、「なにを描かないか」
  • 大胆な省略と感情移入の構造
  • 利益が相反する場面で相手を倒す(殺す)
  • ルック&フィール、抗いがたい魅力
  • 空間認識能力を磨く
  • 「なにを伝えるか」ではなく「どう伝えるか」




なにを描くかよりも、なにを描かないか
映画とは編集である。そして編集とは「なにを描かないか」を決めることである。描かない部分が「暗示」となり、それを鑑賞者が能動的に受け取ることで、「何かを読みとった!」というよろこびが生まれるのだ。

映画『天国と地獄』では、逮捕された犯人に面会した権藤が淋しそうに刑務所から出てくるシーンが、暗示にならない、あまりに直截的であるとされ、カットされ不採用となったという逸話が紹介された。黒澤明監督が、いかに暗示に重要な意味を持たせようとこだわっていたか、編集の効果を重視していたかを感じさせる。


大胆な省略と感情移入の構造
引き続き、映画において「編集」という行為がもつ大きな意味に関する話題。

塾生S山氏は映画『スティング』の劇中の時間の流れと、現実、つまり映画の再生時間がどのような構成になっているのかを分析。その結果、物語が展開されるきっかけとなる詐欺のシーンに20分。結末に繋がる「有線」を仕掛けるシーンに100分。そしてそれを行なうにあたって仲間を募り、準備をするというおそらくは最も劇中では時間が経過しているであろうシーンが、たったの1分であるということがわかった。さらにはこうした構成が、映画『風立ちぬ』でも同様に見られるとして、大胆な省略に映画の魅力を感じずにはいられないとした。

ハックル氏はこれに同意を示し、この大胆な省略を「欠損」と呼び、この欠損が立ち現れるとき、役柄の真摯さや苦労が伝わり、それが感情移入、そして好意へと繋がっていくのだとした。さらにはこの欠損のなかに、大きなメッセージ、換骨奪胎のヒントが隠されているのだ。

感情移入という点で、塾生Y脇氏は『天国と地獄』の主人公である権藤のものづくりへのこだわりに共感を覚えたと言う。これに対しハックル氏は、この映画が「権藤を魅力的にする」という明確な目的をもって作られたと指摘する。

では、どうすれば魅力的な人物像を描けるのか。

さりげなく、わざとらしくなくその人の努力や信念を感じさせることだ。なぜなら、人は愚直な人間を見ると、コントロールできると思い、好きになるからだ。この映画では、権藤が重役とのやりとりで語るものづくりへのこだわりや、身代金を入れるカバンに、火や水に反応するクスリを仕込むシーンで、手仕事が身に馴染んでいる様子などが描かれ、
1.いい人に見せるという意図があり
2.どうすればさりげなくできるかを考え
3.話の進行に織り交ぜる
という手順が踏まれていることを伺わせる。


利益が相反する場面で相手を倒す(殺す)
ここまで映画における「編集」と「大胆な省略」について紹介してきたが、それを行なうにあたって割りを食う存在がある。それが役者だ。クリエイティブに向かうとき、ひとりではものは作れない。映画ともなればなおさらだ。そこで、人を倒す(殺す)必要がある。このことは岩崎夏海クリエイター塾では繰り返し学んできた。

ことのほかこの映画においては、警察に電話をかけるシーンや犯人から二度目に電話がかかってくるシーンが省略されていたり、最大のヤマ場である救出シーンをあえてロングショットで撮影するなど、鑑賞者がそこに存在するであろう表情や会話に想いを馳せるような工夫が凝らされている。しかし、ヤマ場の救出シーンとなれば、役者(三船敏郎)にとってももちろん最大の見せ場である。どんな表情を見せてやろうか、どう演じようか、その意気込みたるや想像に難くない。ところが現場に行ってみると、カメラは遥か50メートルも遠くに据えられている。このときの三船敏郎氏の心境やいかにと苦笑いのハックル氏に、塾生も笑いに包まれるが、これをよしとして撮影を続けることができるのも、黒澤明監督と三船敏郎氏をはじめとした役者陣との信頼関係があるからこそなのだ。その信頼関係とは、見せ場をもらうという短期的な価値を乗り越え、欠損を示すことで映画自体の評価が高まり、結果として役者としての評価が高くなるという、長期的な価値を得られるという期待である。それこそが、クリエイティブな場面で相手を倒す(殺す)ということにつながるのだ。

塾生K上氏は、『天国と地獄』における美しいシーンとして、逮捕された犯人に面会した権藤(三船敏郎)の背中を挙げる。怒りと苦悩を、背中で語るこのシーンが最も美しいと。この評価こそが、黒澤明監督が重要なシーンを大胆に省略することによって、鑑賞者がなにを読み取るのかが決する、ハックル氏が言うところの「射程の深い」作品となった証左とも言えるだろう。


ルック&フィール、抗いがたい魅力
映画『ゴッド・ファーザー』などを撮影した、ハリウッドを代表する撮影監督ゴードン・ウィリス氏は、書籍『マスターズオブライトーアメリカン・シネマの撮影監督たち』で、一本の映画のなかで一貫した「ルック」を保つことが重要だと説く。『スティング』を貫くルックは、アメリカを描いたノーマン・ロックウェルを彷彿とさせる魅力的な画となって鑑賞者を引きつける。

塾生K谷氏は、この映画の冒頭と結末のシーンに、まるで絵画に描かれたようなストップモーションから、やがて人々が動き出すという「静から動への躍動」という共通点を見出した。冒頭と最後に関連性を持たせるこの手法は、ジョセフ・キャンベルの「行きて帰りし物語」を想起させる。

塾生S木氏は『天国と地獄』から「音」に関する抗いがたい魅力を引き出した。それは、刑事「ボースン」という名前の響きである。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の「ジョージ・マクフライ」や「レンジでチン」などの耳に残る、連呼したくなるような「音の感触」が人を惹きつけるのだという。ハックル氏はこれに付け加え、『機動戦士ガンダム』の作者・富野由悠季氏の名付けの手法として「ガギグゲゴ」の音へのこだわりや、「シャア」のように世界中の名前のストックがあることを紹介した。


空間認識能力を磨く
塾生U杉氏は『天国と地獄』における、人物のプロファイリング、人物造形、人間関係などが構築する世界観のリアリティを評価した。

これに対してハックル氏は、映画などのコンテンツ内リアリティと現実のリアリティとの間にある、明確な差異について言及する。コンテンツにリアリティをもたせる要因は「箱庭感」である。現実のなかに入れ子になった閉じた空間にもうひとつの現実を形成するのだ。その意味で、黒澤明氏は箱庭を精緻に作り上げることに長けていると分析し、クリエイターには空間認識力と建築的な素養が求められるとした。

空間認識力は、「都市がなぜそのような構造になっているのか?」という、地形+αが紡ぐ「Code」を読み解くことで鍛えることができる。名作を生み出してきたクリエイターたちは、この空間認識力を武器として、そのクリエイションのなかに魅力的な空間を生成してきた。ハックル氏は特に空間生成能力が高いクリエイターとして、大友克洋氏を挙げる。クリエイターは『AKIRA』や『童夢』などの作品から、その最高峰を知る必要があるだろう。


「なにを伝えるか」ではなく、「どう伝えるか」
前項までが塾生のプレゼンテーションを通じて展開された授業内容となるが、この課題を通して塾生が学んだことは、「換骨奪胎」における「構造を見抜く」ことだった。ハックル氏はこのクリエイションの構造を成すものを「側(ガワ)」と呼び、クリエイティブな場面においては、中身よりも「側」を磨いていくことが重要で、「内容が大事」というのは本質的ではないのだと言う。

「側」についてもっと具体的な例を挙げれば、
・フォント
・ファッション
・名前
・音
・匂い
・バランス
などがある。これらは一般的にないがしろにされがちな故に、人々は無意識の領域で支配されるのだ。

この「側」について授業後の質疑で、塾生から
「側を見抜くときに突き当たる、『自分らしさへの志向』と『本質に向かう道のり』の差異はどんなところにあるのか?」
という質問があがった。

これに対するハックル氏の回答は、
「前者は鑑賞者としての視点であり、後者がクリエイターとしての視点である、という差異がある。」
というものであった。

この両者の違いは、前者は「内容」を受け取り、後者は「側」を見抜こうとしているということだろう。換骨奪胎において「構造を見抜く」といわれたとき、多くの人が前者の考えにとらわれてしまう。それが単に鑑賞者であるだけなら問題はないが、実は多くのクリエイターがその罠に陥っている。

このことを前述の書籍『マスターズオブライト』でゴードン・ウィリス氏が言及しているので引用し、記事を終えたい。

優れた監督が「すごい企画を見つけてね、ぜひやってみたいんだ」と言うのはいい。「何か訴えたいことがある」と言う監督にはいつも気持ちがぐっと暗くなる。確かに精神の奥深いところでそういう欲求があるのかもしれない。でも、それはちょっと危険なことだと思う。彼らが本当にそう信じているかどうかさえ定かじゃないからね。つまり、監督の仕事とは物語を画面にうまくのせて、観客が物語に入り込み、興奮し、知的なというよりもむしろ、娯楽のレベルですごいものを見たと感じるようにさせることなんだよ。
(マスターズオブライトーアメリカン・シネマの撮影監督たち p.316)

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授業の中で言及された作品
※作品のリンクはAmazonアソシエイトリンクを使用しております。

天国と地獄



スティング



マスターズオブライトーアメリカン・シネマの撮影監督たち



童夢




AKIRA 全6巻完結セット(KCデラックス) 大型本




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第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
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2015年1月30日金曜日

第二期岩崎夏海クリエイター塾 第一回に参加してきました!


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年1月17日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第一回に参加したので、レポートをお届けしたいと思います。

第一期から引き続きの参加となった岩崎夏海クリエイター塾。十数名の方がリピート参加とのことでした。
第一期からご一緒させていただいている塾生の方のツイートをご紹介します。




ハックル氏は折にふれて「2015年は勝負の年」とおっしゃっていて、それを体現するように濃い授業内容となり、それがお二方のツイートにも現れています。

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  • 価値について深く考えた結果、価値については考えない
  • マジシャンに学ぶクリエイションの外郭
  • クリエイションは「序列」である
  • 生きるとは問題解決すること
  • 美は「バランス」である


岩崎夏海クリエイター塾では基本概念「クリエイションとは換骨奪胎である」を軸にして授業が展開されていきます。
換骨奪胎の段階は下記の通り。
1.良いものを見分ける
2.構造を見抜く
3.他のものに移し替える


価値について深く考えた結果、価値については考えない
クリエイターを目指す者のなかに、名画「モナリザ」を良しとしない罠があり、その価値を疑ってかかろうとするのだそうです。

※画像はWikipediaからパブリックドメインのものを使用しています。

ハックル氏はこれを、クリエイターはいわばリレーの走者であり宅配業者であるから、自分自身が繋ぐバトンや運ぶ荷物の良し悪しについて検討したり判断する必要はない、と断じます。
歴史の中で「良い」とされたものに対する価値判断は必要なく、既存価値の肯定という谷を越える必要があるのだそうです。

そして二番目の「構造を見抜く」を言い換えれば、「それはなぜ素晴らしいのか」という「問い」であり、その答えを出してくれるのが、評論家という存在なのだとハックル氏は言います。
彼らはクリエイターの協力者であり、クリエイションに援用する限りにおいては、その評論や抜き出した構造を利用しても、問題が起きることはあまりないということです。

この「構造」とはどういったものなのでしょうか。
その一部としてハックル氏は「奥深さ」「細部へのこだわり」を挙げます。
人の見た目が眉毛一本で印象が変わるという、あるヘアメイクアーティストの言葉を借り、「見る」「違いを見抜く」ことが修練が必要な技術であるとし、また、ハックル氏が、映画『フォレスト・ガンプ』を幾度となく見返す中で発見した、奥深さ・細部へのこだわりのひとつが例示されました。
この映画の冒頭で画面を横切るバスに、1983年モデルの車の広告が掲げられているのですが、映画の中で年代が明示されている部分は他に無く、ジェニーが冒されていた原因不明の病気というのがエイズであることが暗示されているのだそうです。


マジシャンに学ぶクリエイションの外郭
Mr.マリック氏をはじめとして、なぜマジシャンはいかにも嘘をつきそうな、胡散臭さを感じさせる風体をしているのでしょうか。信用されるような格好をしたほうがいいのではないでしょうか。
同様に、ある結婚詐欺師を描いた映画『クヒオ大佐』でも、いかにも胡散臭い人物像が描かれています。
騙される人々は「人を騙すなら、信用されるためにきちんとした格好なり態度をするだろう」という予断を抱くのだと、ハックル氏は言います。

このように予断・予測が人の心理を大きく左右する例として、驚くことが怖いのではなく、恐ろしい出来事が起きるかもしれないと、予測することが怖いのだという、ヒッチコックの恐怖理論が挙げられました。
このように構造の相似形を見い出し、重ねていくことで、奥深いコンテンツを作り出すことができるのだそうです。


クリエイションは「序列」である
画家・山下清が軍階級で作品をランク付けしていたように、クリエイションには点数がつけられる、絶対的なクリエイションがあるという視点を持ち、世界で一番、二番のものを鑑賞する必要があると、ハックル氏は説きます。

そこで、文学の歴史における源流ともなっている『ドン・キホーテ』についてのお話しがありました。

著者アントニオ・セルバンテスは騎士道小説のくだらなさに辟易し、いかにしてそれらを貶めるかという視点で、先行する騎士道小説を読み込んで頭がおかしくなった老人の物語を書いたそうです。
今から400年前に著されながらも、「ゲーム脳」と呼ばれ、コンテンツ消費過多により社会不適合状態が引き起こされるという、現代的なテーマを持っているとハックル氏は指摘します。

ドストエフスキーはドン・キホーテを評して純粋さ、節を曲げない、付和雷同しない、信念を貫くといった点において「人間の生み出した最も美しい人間である」としたそうです。

ドン・キホーテの価値についてはハックル氏の著書『小説の読み方の教科書』でも触れられています。
メインは『ハックルベリー・フィンの冒険』の読み解きですが、いかに『ドン・キホーテ』が今に至るまで数々の作品に影響を与え続けているかについて説明されていて、非常に興味深いものとなっています。

ドン・キホーテに挑戦する場合、まずは岩波少年文庫から出版されているダイジェスト版を読むことを勧められていました。
牛島信彦氏は、『ドン・キホーテ』を訳すために、30年かけて「日本語」を勉強したそうです。
その意味で日本は翻訳天国であり、脈々と連なる歴史的な名作が実力ある翻訳者によって訳されているため、原書を読むより素晴らしい読書体験ができるとハックル氏は言います。


松岡正剛氏が運営する書評サイト・千夜千冊でも『ドン・キホーテ』が紹介されていました。
松岡正剛の千夜千冊
ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』
http://1000ya.isis.ne.jp/1181.html


後半

生きるとは問題解決すること
キリスト教における三大価値「真・善・美」のひとつでもある「美」。審美眼を磨くことが、問題解決能力を高めることに繋がると、ハックル氏は説きます。

しかしここでもまた、陥りやすい罠があります。それは「美しいとはなにか」という問いを立てたときに、「人それぞれである」とすることだとハックル氏は言います。

短期的解決と長期的解決の間では利益が相反しやすいことから、多くの人が短期的な解決策に甘んじてしまうのだそうです。
例えば、学校教育において美しさ、正しさが唯一とすると短期的に問題が生じるために「美しさは人それぞれ」という価値観が称揚されます。しかし、長期的に見ると審美眼を養う機会を失い、その結果、問題解決できない大人になってしまうのだとハックル氏は指摘します。


美は「バランス」である
審美眼を磨き、美を見抜く方法の具体例として、いくつかのお話がありました。
こちらはトピックのみと掲載といたします。

・広重のバランス
歌川広重『大はしあたけの夕立』や『四ツ谷内藤新宿』の構図における絶妙なバランスについて、
・エッジへの到達点の0.1mmの違い
・「shape」へのこだわり
・職人仕事における「仕舞い」
というキーワードを基に詳しい解説がありました。

・画集の紹介
赤瀬川原平・印象派の水辺
http://amzn.to/1EQdsJU
広重ベスト百景 赤瀬川原平が選ぶ
http://amzn.to/1EQdzW0

・アントニオ・ガウディは自然に学ぶ

・映画は画がいいと信用できる
コーエン兄弟監督作品や60年代の映画がいい
コーエン兄弟の監督作品の中でも、最も画がいいのは、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』http://goo.gl/NpKOsh

・松田美智子「サムライ 評伝 三船敏郎」
http://amzn.to/1uEcYpQ
三船敏郎の伝記。三船敏郎の演技の秘密について書かれている。

・ハックル氏は高校時代にいつもゴッホ、ルソー、ダリの画集を見ていた

・真島昌利「オーロラの夜」
「サルバドール・ダリの絵みたいに」と歌っている

・ユダヤ人型俳優の美しさ
ポールニューマン…代表作『スティング』
リチャード・ドレイファス…代表作『日の当たる教室』
リチャード・ドレイファスはアップルのCMでナレーションをしたことがある。
http://youtu.be/nmwXdGm89Tk


・スティーブ・ジョブズの審美眼
美しいものを穴が開くほど見る。
美しいもの、気に入ったものしか身の周りに置かない。
スティーブ・ジョブズ氏の美へのアプローチに関しては、ハックル氏のブロマガに関連記事があります。
デザインの時代が来る(2,670字) ※有料記事ですhttp://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar463952


最後になりましたが、次回から岩崎夏海クリエイターのレポートが簡易版(トピックの提示のみなど)のになる可能性がありますので、ご了承ください。
今後は、ハックル氏のオススメするコンテンツのインプットや、ハックル氏の膨大なコンテンツをまとめることに時間を振り分けていきたいと思います。


授業の中で言及された作品
※作品のリンクはAmazonアソシエイトリンクを使用しております。
フォレスト・ガンプ


ナニワ金融道


ドン・キホーテ岩波少年文庫ダイジェスト版


赤瀬川原平・印象派の水辺


広重ベスト百景 赤瀬川原平が選ぶ


松田美智子「サムライ 評伝 三船敏郎」


真島昌利「オーロラの夜」


江川卓「謎解き罪と罰」


岩崎夏海「小説の読み方の教科書」



最後までご覧くださいましてありがとうございます!

またあそぼーね!

第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
http://blogger.naminoritaishi.com/p/huckleberry.html

2015年1月15日木曜日

岩崎夏海クリエイター塾 第十二回に参加してきました!


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2014年12月20日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「岩崎夏海クリエイター塾」の第十二回に参加したので、レポートをお届けしたいと思います。

第一期・岩崎夏海クリエイター塾最終回となった今回は、映画の起源から最先端を見通す興味深いものでした。
また後半は、宿題となっていた映画『インターステラー』を塾生がプレゼンテーションするという非常に刺激的な内容となりました。


本日のメニューはこちら!

  • 映画の本質は編集にあり
  • 映画をプレゼンテーションする



映画の本質は編集にあり
1894年、リュミエール兄弟が動画をスクリーンに投影する「シネマトグラフ・リュミエール」を開発したことによって、一度に多くの人々が鑑賞するスタイルの映画が生まれました。
しかしリュミエール兄弟は、目新しさがなくなって人々は興味を失い、賞味期限つきの栄光となるだろうと見切りをつけ、動画から離れていったそうです。

リュミエール兄弟 - Wikipedia
リュミエール兄弟は、アメリカのトーマス・エジソンと並び称せられるフランスの映画発明者。「映画の父」と呼ばれる。
http://goo.gl/oRCcne

それとは裏腹に、エイゼンシュテインによってモンタージュ理論が生み出され、記録としての役割しか持たなかった動画は、編集によってエモーションに訴えることができるという効果が発見されたことで、大きく発展していきます。
映画『戦艦ポチョムキン』の、階段を転げ落ちる乳母車と叫ぶ女性の有名なシーンで、鑑賞者はその意味を想像で補うのです。

セルゲイ・エイゼンシュテイン - Wikipedia
http://goo.gl/xK1IUb

その後、アメリカにおいて低級な娯楽とみなされていた映画産業を、移住してきたユダヤ人たちが成熟させ花開いていくのですが、前述の通り編集なくして映画なしとも言えるこの歴史の最先端に立つのが、クリストファー・ノーラン監督の映画『インターステラー』なのだとハックル氏は言います。

"「インターステラー」は、一見して現代映画の正当進化形だと感じた。"
「インターステラー」が橋渡すもの(2,140字) http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar681068


コンテンツとして歴史の浅い映画は、長い歴史を持つ演劇とは異なる進化を遂げたそうで、もっとも大きく異なるのが、演技における「外連味」なのだそうです。

日本人の99パーセントが知らない「演技とは何か?」ということ(2,164字) http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar549666

ハックル氏は、アリストテレスの"鑑賞者は自分が劇場にいることを知っている。つまり、そこで行われていることが嘘であることを分かっているにも関わらず感情を揺さぶられる"という論を引用し、この時、演技に宿る外連味が大きな意味を持つのだと言います。
翻って映画では演劇マジックが通用しない。動画は前述したように、記録であり、ジャーナルであるため、大げさな外連味は毒となってしまうのだそうです。


映画をプレゼンテーションする
プレゼンテーションにおいて、本質をえぐる→言葉に変える→人に話すという手順を踏む変換作業は、とてもクリエイティブな側面を持ち、「映画紹介芸」とも言えるとハックル氏は言います。
インターステラーを観に行ったという話を友人などにするとき、「どうだった?」がゴングとなってプレゼンテーションが始まる。それは、「話す」チャンス作るという意味でも重要なものになります。

プレゼンテーションは教室のホワイトボードに数字を書き、自分が話したい順番のところに名前を記入することで順番を決めます。
僕は一番手に名乗り出てプレゼンテーションを行ないました。
前述のブロマガで、愛とは何か、時間とは何か、という問いかけがされていると書かれていたのを参考にさせてもらい、愛と時間に関する自分なりの考察を発表しましたが、うまくオチをつけられず尻すぼみな展開に終わり、人前でアドリブで話すことの難しさを痛感しました。
このプレゼンテーションについては、書き起こしたものをハックル氏にいただいたアドバイスをもとに修正し、機会を見て公開したいと思います。

時間の関係で僕を含め8名の発表でしたが、それぞれの方の発表とそれに続くハックル氏のアドバイスはとても有用なものでした。
こちらは文章化しづらいので割愛させていただきます。


終わりに
2014年7月から始まった第一期・岩崎夏海クリエイター塾も、ついに最終回を迎えました。
月に二回の日程で行われてきたこの塾は、当初とは思いもよらない形で人生の深いところまで潜るようなものとなりました。
ハックル氏を通じて古今のクリエイターがその創作物と向き合う姿勢を知ることで、生き方そのものを考え直すことに繋がっていくのを感じるのです。

前回のレポートブログでもお伝えした通り、第二期・岩崎夏海クリエイター塾への参加も決定していますので、引き続きレポートブログを書くとともに、並行してハックル氏の尽きることないコンテンツをまとめることを始めようと思っています。

最後までご覧くださいましてありがとうございます!

またあそぼーね!

岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
http://blogger.naminoritaishi.com/p/huckleberry.html