皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。
2015年4月11日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第七回に参加したので、レポートをお届けします。
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今回の授業では、ハックル氏プロデュースで撮影された映画『小劇場のボクサーたち』の試写会が行われた。
この映画はぴあフィルムフェスティバル(以下PFF)に応募され、未公開が前提であることから、内容云々について論じることはしない。これまでと同様、クリエイションの「外郭」に迫る。
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- アンコントローラブルににじり寄る
- 人生の集大成としての映画
■アンコントローラブルににじり寄る
岩崎夏海クリエイター塾では、課題として映画を見る。映画を見ることの意味は、それがクリエイションの本質に結びついているということにある。映画に触れることが、あらゆるクリエイションに波及するのだ。
そして今回、ハックル氏が映画を制作する中で導きだした、クリエイションの本質を表すのに最も適した表現は、「アンコントローラブルににじり寄る」というものだった。
映画はひとりでは作れない。
人同士の葛藤、取り巻く環境との摩擦、予期せぬ出来事、その過程で立ち現れるものの中でバランスを取ることこそがクリエイションの本質に近づくことなのだ。
"そういうふうに、映画の素晴らしさはしばしば偶然から生まれる。それは、意図してはなかなか作れない。"
映画とは何か?(1,805字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar767691
映画はリュミエール兄弟に発明された後、エイゼンシュテインの生み出した「編集」という技法によってその価値を飛躍的に高め、20世紀の一大産業となった。その後更に「CG」が発明された。CGが果たした大きな役割は、「アンコントローラブルの排除」であろう。
しかし映画の撮影は、CGによって粛々と執りおこなわれる作業のようにはならなかった。やがてCGを使った映像は廃れていったのだ。
映像が持つ廃れない価値は、むしろ人が演じるなかに表れるアンコントローラブルな現実を切り取る「虚実皮膜」にあることが、逆にはっきりしつつあるのだ。
"映像というのは、おそらくこれと同種の廃れない価値を持っている。それは、CGが発明されても廃れなかったし、3Dが発明されても廃れなかった。今後、ヴァーチャルリアリティが流行しても、けっして廃れないだろう。"
技術の進歩によって逆に技術に浸食されないものの価値が高まる時代(1,870字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar769771
■人生の集大成としての映画
ハックル氏はこれまでに二度、映画の制作に取り組む機会があった。
ところが、
・中学2年生のときに文化祭でクラスの出し物として映画を撮ることになった。撮影を終えたものの音がうまく取れておらず、アフレコによるナレーション芸で好評を博し難を逃れたが、映画として成功とは言えず。
・大学時代に友人2人をを引き連れエビ天(三宅裕司のえびぞり巨匠天国)参加を目論むも、友人をコントロールできずに挫折。
という具合に、二度に渡ってアンコントローラブルな出来事をいなすことができなかった。
その後ハックル氏が過ごした時間は、アンコントローラブルに対応する力を身につけるためだったと言っても過言ではないだろう。その結果、映画を「撮る」というよりも「掘る」という方がしっくりくるようになった。
PFFで賞を取ることと、映画を作ろうとする気持ちのバランスは、いつしか映画に内在する必然性に寄り添うようなものになった。ハックル氏は、第二期岩崎夏海クリエイター塾の課題となっていた映画同様に、「時代を切り取る」ことに腐心している。
『小劇場のボクサーたち』は、サイモン&ガーファンクルの名曲 『The Boxer』に着想を得て、都会(時代)の片隅で生きる人々にスポットライトを当てる作品となった。
時代を生きることはとても辛いことである。熾烈な競争を勝ち抜いていくことである。
時代を生きる人々と、時代を映し取ろうとするハックル氏。虚構と現実を幾重にも重ね、あるべき形に寄り添うとき、人智を超えた領域にTouchすることができる。
ハックル氏自身もまた、そのリングに上っていくボクサーなのだろう。
最後までご覧くださいましてありがとうございます!
またあそぼーね!
第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
http://blogger.naminoritaishi.com/p/huckleberry.html