2015年4月17日金曜日

帰依する時代のクリエイション 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第六回


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年3月28日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第六回に参加したので、レポートをお届けします。

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今回の授業におけるビッグワードともいうべき一語を挙げるとすれば、それは「帰依」という言葉になるだろう。

「帰依」という言葉は仏教用語であるが、ここでは「大きなものに寄り添うこと」という意味で使う。クリエイションにおける「帰依」とはどんなものだろうか。クリエイターは何に「帰依」し、どこにたどり着くのか。
映画に帰依し、文学に帰依するハックル氏の姿、そして課題となっていたダスティン・ホフマン主演の2本の映画、『クレイマー、クレイマー』と『真夜中のカーボーイ』から、時代に帰依するということを学んでいこう。

映画『クレイマー、クレイマー』はハックル氏ブロマガ連載「週末に見たい映画」シリーズで紹介されている。

週末に見たい映画#24「クレイマー、クレイマー」(2,499字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar251234


本日のメニューはこちら!

  • クリエイションにおける帰依
  • 時代への帰依
  • 離見の見を得る


クリエイションにおける帰依

まずは、ハックル氏の自主制作映画と執筆活動などの八面六臂の仕事ぶりから「帰依」について考えていこう。
前回のレポートブログでもお伝えした通り、ハックル氏プロデュースの映画がついに完成したそうだ。

【自主制作映画】完成しました! ― 源氏山楼日記
クランクアップしました! ― 源氏山楼日記
映画クランクインしました! ― 源氏山楼日記

これらのブログによると2月6日にクランクイン、1ヶ月強の撮影を経て3月13日にクランクアップ、編集を行ない3月20日に完成したとのこと。
ついで息つく間もなく10万字前後の書籍の執筆に突入、残り8万字(原稿用紙200枚)の原稿を5日間で書き上げたそうだ。北方謙三氏は20枚/日、筒井康隆氏は5枚/日とのことなので、かなりの執筆スピードであることがわかる。
毎日2000字のブロマガ連載のクオリティを落とすこともなく、10万字前後の書籍と10万フレームの映像と格闘するハックル氏には畏敬の念を禁じ得ない。

このスピードで執筆するともはや自分で書いているという感覚がなく、彫刻家・ミケランジェロの言を借りるならば、"あるべきかたちはすでに素材の内に現れており、それを丁寧に掘り起こすだけ"なのだとハックル氏は言う。
複数の締め切りを抱えることで、オーバーフローを引き起こし、フロー状態(無意識)に達する。そして映画にも文学にも存在する「あるべき姿」に到達する
この「あるべき姿への到達」が「帰依」なのだ。

「帰依」の例を挙げてみよう。
小津安二郎監督は、「演技の排除」に「帰依」した。演技の排除は、脚本と歌のようなセリフを練り上げることに繋がり、演技を封じられた役者陣はその内からにじみ出る個性に「帰依」し、完璧な絵と相まって奇跡の映画(映画について語るときに僕たちの語ること 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第四回 へのリンク)を生み出した。

これは白洲正子氏が能について言及していることと近いのではないだろうか。
"舞い手が個性を捨て、型通りに舞っていたとしても、やがてその人間の性格の芯とも言うべき部分が外に出てくる"というものだ。
「型」に「帰依」することが一周回って「個性」に繋がっていくというのは興味深い。


ハックル氏はどのように映画に「帰依」しているのか。
ある面では小津安二郎監督的であり、、ある面では『真夜中のカーボーイ』的であり、ある面では『フォレスト・ガンプ』的である。これまでに培ってきたすべてのことが「あるべき姿」を浮かび上がらせるのだ。

"脚本を書くとき、撮影をするとき、編集をするとき、常に「どうすれば映画になるか?」という問いがある。(中略)今回ぼくが作った「小劇場のボクサーたち」は、「映画とは何か?」という問いに対するぼくの回答のような作品となったのだ。
自主制作映画を作った(2,006字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar763086


お分かりの通り、生半可なことでは「あるべき姿」や「無意識の領域」には到達することができない。
中島らも氏には酩酊状態となり記憶を失い、朝には書いた記憶のない80枚の原稿が机のうえに置いてあるという逸話があるそうだ。
これはかなり特殊なケースと思っていいだろうが、クリエイターは某かの方法を以って意識と無意識の分水嶺をめざし、無意識の領域へと自分を持っていく必要がある。そのことには疑いを挟む余地はない。
そしてそれこそが、向き合う対象に「帰依」することとなり、更には岩崎夏海クリエイター塾が掲げる「クリエイションは小手先の技術ではなく生き方そのものである」という考えにつながっていくのではないだろうか。


時代への帰依

映画には歴史に名を残す作品と、失われていく作品がある。
もちろん、今回の課題となった2作品は前者に属する。両作品に主演しているダスティン・ホフマンの存在がそれを可能にしていることは、疑いようもない。
ではなぜ、ダスティン・ホフマン主演のこの2作品は、文化的資産となり得たのだろうか。

ハックル氏はダスティン・ホフマンが「時代に帰依」した存在であるとした。
ここで重要になるのが、「時代に帰依」することと、「時代に飲み込まれる」ことの明確な差異である。
その違いはどこにあるのだろうか。変化する時代の激流に流されることなく「帰依」するためには、どのような視点が必要なのだろうか。

それを明らかにするため、ひとまず「時代に飲み込まれる」ことについて考えてみよう。
『真夜中のカーボーイ』で描かれたものは紛れもなく当時の「現代を生きる若者」だった。現代を生きるということは、良くも悪くも世知辛さに身を投じることなのだ。利己的で無知な主人公は、時代に飲み込まれ、その世知辛さに翻弄される。
しかしながら紆余曲折の後、主人公は自分自身の執着を「リリース(※)」する。その様こそが「時代に飲み込まれる」ことがどういうことなのかを表象し、多くの鑑賞者にカタルシスをもたらすのだ。
つまり、時代に飲み込まれないためには、「リリース」という概念を捉えることが重要になる。
(※理想の状態を極限まで目指しながら、最終的には折り合いをつけて現実に寄り添っていくこと)

ダスティン・ホフマンに話を戻そう。
折しも『クレイマー、クレイマー』の撮影中、ダスティン・ホフマンは私生活においても離婚係争中であった。普通であればその状態で離婚とその裁判を扱う映画に出演するなどということは考えられないが、ダスティン・ホフマンは、あまつさえ脚本やインプロヴァイゼーションの部分でも積極的に参画した。時代の変化によって、人と人との関わりが変容していくのに翻弄されながらも、それを映画という形で正確に写し取ることに尽力した。そのことがダスティン・ホフマンに「俯瞰」を与えたのだ。

そう考えると、「リリース」「俯瞰」という2つの要素が、「時代への帰依」をもたらし、二つの作品を名作へと押し上げたということができるだろう。


離見の見を得る

では、クリエイターが「リリース」と「俯瞰」を手にするにはどうしたらいいのだろうか。
それには「離見の見」が有効になるだろう。「離見の見」はハックル氏ブロマガ連載「競争考」で何度も紹介されている、能の大家、世阿弥の言葉だ。

競争考:その30「メタ視点の鍛え方」(2,145字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar666972


この記事はクリエイターとして生きていくためには、「メタ視点」を鍛える必要があるとする観点から書かれている。そしてこの「メタ視点」は、前述の「リリース」と「俯瞰」の複合概念とも言えるだろう。更にそのメタ視点を鍛えるためには「離見の見」が有効であるとする。つまりクリエイターとして「帰依」に至るためには、「離見の見」を理解することは欠かせないのだ。

時代が変化を始めたのはいつなのだろうか。いや、変化しなかった時代などついぞなかった。ただ、変化のスピードは、ますます早くなっている。それに対応していくためには、自分自身の生き方を変えていかなければならないのだ。
繰り返して言おう、クリエイティブは小手先の技術ではなく生き方そのものである


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最後までご覧くださいましてありがとうございます!

このブログを書いている最中に、記事の中で紹介したハックル氏のブロマガ連載「競争考」が、書籍になることが発表されました!
出版元は何と岩崎夏海クリエイター塾に参加されている塾生の方がお勤めの出版社ということ。素晴らしいです!早速予約しました!










またあそぼーね!

第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
http://blogger.naminoritaishi.com/p/huckleberry.html



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