皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。
2015年6月27日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第十一回に参加したので、レポートをお届けします。
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「生きる」ということは「問題解決」することである。ハックル氏はそう断言する。そして、「アイデアというのは複数の問題を一気に解決するものである」とする言葉を紹介する。これは、任天堂のゲームデザイナーである宮本茂氏の発言を、同じく任天堂の代表取締役社長・岩田聡氏が紹介することで、ネットを中心に広く人口に膾炙しているものだ。
アイデアというのはなにか?――― ほぼ日刊イトイ新聞
http://www.1101.com/iwata/2007-08-31.html
アイデアとは、一体どういうものなのだろうか。ハックル氏ご自身のクリエンション、そして宿題となっていた、スティーブン・スピルバーグ監督『JAWS』『激突』、宮崎駿監督『魔女の宅急便』『耳をすませば』から探る。
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- 問題解決=アイデア=一石二鳥
- アイデアを生み出す過程で持つべき倫理観
■問題解決=アイデア=一石二鳥
アイデアとは、逐次的な問題解決ではなく、ある問題について「一石二鳥」を狙うことと同義である。これはハックル氏がご自身の書籍で実証されている。「もしドラ」を売ることが、ドラッカーの「マネジメント」を売ることになったのだ。日本ドラッカー学会の会長を務めるなど、文字通り日本におけるドラッカーの第一人者である上田惇生氏が、「もしドラ」の出版にあたってこんなことをおっしゃったそうだ。"「この本も、平岩外四になると思うんだ。つまり、この本は、ドラッカーの『マネジメント』を書いてあるからすごい――のではなく、その逆に、この本に書いてるから、ドラッカーの『マネジメント』っていうのはすごい――って、いつか、そう言われる時代が来るんじゃないかなぁ」"
[連載第34回]「もしドラ」はなぜ売れたのか?「唯一の奇跡(後編)」(2,274字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar258116
「もしドラ」は、これをはじめとした、幾つものアイデアの積み重ねの上に成り立っている。だからこそ270万部の大ヒットとなったのだ。どのようなアイデアが組み合わされているのかを、包み隠さず伝えるブロマガの連載は、書籍としても出版されている。
『もしドラ』はなぜ売れたのか?
http://amzn.to/1NHDlA5
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もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
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■アイデアを生み出す過程で持つべき倫理観
任天堂のゲームづくりは「コミュニケーション促進」という意味で、プレイすることによる「一石二鳥」を適えている。だから「Splatoon(スプラトゥーン)」は大ヒットとなっている。しかしこれは、裏を返せば、「仲間はずれ」になることが辛いということも言える。任天堂では、それをエグいまでに煮詰めて制作しているのだ。このように、出てきたアイデアにある種の残酷性が宿っているケースがある。クリエイターはこの現実にどのように向き合うべきなのだろうか。必要なのは「差別心」であるとハックル氏は説く。「透徹した高い倫理観」からくる「差別心」こそが、クリエイターを高みへと連れていくのだと。
"差別というのは、良くも悪くもそこにあり、その存在を認める以外ないのである。問題は、それを認めつつ、どう生きていくかということなのだ。"
差別とは何か?(2,400字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar823386
結局のところ、「差別してはいけない」という主張は、二歩くらいで行き詰まる。スティーブン・スピルバーグ、宮崎駿両監督の作品からは、彼らが「透徹した高い倫理観」をもって差別心を内包し、許容していることを学ぶことができる。
わかりやすいものを挙げると、『JAWS』においては、若い女性や幼い子供の残酷な死をセンセーショナルなものとして使うことであり、『魔女の宅急便』においては、キキのパンツを見せることである。後者については、宮崎駿監督が次のように発言している。
"「キキが最初の町で失敗するので、最後はどうしても町の中で、 それも地面の上でキキが何かをやらないとたとえ、 知り合った人間達とうまくやれるようになっても、 この映画としては終わらないんです。 町の中でパンツ丸だしになるということは、 絶対、最後の通過儀礼として、キキには必要なんですね」 "
※ソース紛失:宮崎駿監督がインタビューに答えている記事の切り抜きを紹介しているサイトから
宮崎駿監督は、人間としての価値の相対性を認めて、キキを未熟な人間として差別しているのだ。女子供と見て対等に扱っていないということがわかる。これは現代の「真っ当な」差別意識に照らせば、糾弾されてもおかしくない。
両監督がそのような咎から逃れることができるのは、ちゃんと「差別」しているから、ということに他ならない。ちゃんと差別すると、対比としてちゃんと美しさを描くことができる。人がいいと思うもの、好きにさせるものの記号にあふれ、「好きという感情」をさらけ出す障害を取り除き、フラットな映画としての魅力を極限まで高める。そうすることで、ひとつの作品のなかで、差別心をしっかり回収することができるのだ。
このクリエイションとしての「懐の深さ・器の大きさ」を拡張する「差別心」が、そのままクリエイターとしての生き方につながっていく。クリエイターは「差別はいけない」という安易な考えにおもねることなく、透徹した倫理観からその構造を見通し、「差別心」の痛みをもって自らの器を拡張していかなければならないのだ。
差別心を受け入れ、自らの器を拡張することについて書かれたハックル氏のブロマガの一部を紹介し、本稿を終えたい。
"人は、そういうふうに視点を増やしていくことによって、さまざまな問題に対して客観的な眼差しを得られるようになる。(中略)客観的な眼差しを持つということは、それだけ問題を解決しやすくなる"
教育考:その14「器を拡張するということ」(1,831字) http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar771594
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最後までご覧くださいましてありがとうございます!
第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
http://blogger.naminoritaishi.com/p/huckleberry.html
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