2015年2月27日金曜日

お前のものはオレのもの!?第二期岩崎夏海クリエイター塾 第三回

皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年2月14日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第三回に参加したので、レポートをお届けします。

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今回の授業に先立ち、映画『フェリスはある朝突然に』を観て、構造を見抜くプレゼンテーションする、という課題が与えられた。

課題となった映画が、ハックル氏ブロマガの「週末に見たい映画」シリーズで紹介されている。この映画は、ハックル氏が今までに見た映画に順位をつけたとき、「第3位」にランクインしたものだ。


週末に見たい映画#015「フェリスはある朝突然に」(2,096字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar184602

週末に見たい映画#43「年末年始に見たい映画5位から1位」(2,807字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar422132


本日のメニューはこちら!

  • 桃太郎の非対称性と悪の規定
  • 「幻視/Vision」による自己と他者の峻別
  • シンボルとしてのフェラーリ
  • フェリスの果たす役割




桃太郎の非対称性と悪の規定
プレゼンテーション前にハックル氏のフリートークがあり、「桃太郎の非対称性」と「悪の規定」についての話があった。

「桃太郎の非対称性」について端的に言うと、鬼が悪と規定され、桃太郎によって滅ぼされることの蓋然性が全く説明されていないということだ。
桃太郎は、正当な理由もなしに鬼ヶ島へ攻め入って鬼を退治し、あまつさえ鬼の財宝までも持ち帰る。なぜ、このような返報性のない理不尽な物語が、最も有名な昔話となり、人の心を打つのだろうか。
それは、人が「交換」の概念に縛られているということから説明できる。

「交換」とはどのような概念だろうか。
それは、「おっぱいの大きな女性は頭が悪い」とか、「障害がある人は心が清い」といったものだ。人の判断力は、このような「交換」に縛られている。それゆえに「交換」が成り立たないケース、「非対称性」に興味関心を抱くのだ。

それと同時に、人は得体のしれない「絶対悪」を必要としている。渇望と言ってもいい。この渇望が「悪を規定する」ことを促す。
桃太郎で言えば鬼であり、歴史的にはヒトラーや東條英機など、実在の人物も挙げることができる。

日本には桃太郎の「非対称性」「悪の規定」が実際に応用された事例がある。それが第二次世界大戦だ。

"桃太郎は「鬼畜米英」という鬼を成敗する子としてスローガンに利用された"
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E5%A4%AA%E9%83%8E

当時の日本国民の大多数は、戦争が起きることを強く望んでいた。そこで「鬼畜米英」という悪を規定することで、戦争という物語がぐっと魅力的なものになり、人々は戦争に酔いしれた。

しかし、結果的に日本は負けてしまった。生き残った日本人は、戦争に突き進んで多くの人命が失われたことを、激しく後悔した。ところが、日本人は自分の悪さを受け入れることはなかった。戦後のアンケートで、国民の70%以上が「東條英機に責任あり」としたのだ。日本国民は、手のひらを返すように別の悪を規定し、「戦後」という物語を紡ぎ出していった。

クリエイターは、このように世の中を相対的に見ることで、多くの人が見過ごしている非対称性や規定された悪を「ものごとには理由がある」という視点で分析し、自らを利することが求められるのだ。


「幻視/Vision」による自己と他者の峻別
それでは、ここからは前回同様、塾生による映画『フェリスはある朝突然に』(以下、『フェリスは~』)の構造を見抜くプレゼンテーションと、それに続くハックル氏の解説から、クリエイションの本質に迫っていこう。

『フェリスは~』において最も特徴的なのは、主人公であるフェリスが、画面のこちら側に向かって語りかけることにあるだろう。塾生S山氏は、ジョン・ヒューズ監督が、シカゴの街で繰り広げられるパレードでのシーンを撮りたいがために、その不自然さを隠す目的でこの手法を採用したのでは、と指摘する。

ここで、「監督が撮りたいもの」という言葉を正確に捉えるために、一旦枠を広げる必要がある。塾生の間での評価が分かれた『フェリスは~』ではあるが、それぞれに魅力を感じる部分があった。シカゴの街という「箱庭」を縦横無尽に遊びまわるフェリスや、シカゴの街そのものに惹きつけられるのだ。

この魅力は、一体どこから湧き上がってくるものなのだろうか。『フェリスは~』で描かれているものは、全て監督の個人的な欲求なのだろうか。前項の例に倣えば、東條英機は自分の戦争欲を叶えたかっただけなのだろうか。そうではない。当時の日本国民は、戦争を渇望していたのだ。もちろん戦争とクリエイションは分けて考える必要があるが、自己の欲求と他者の欲求はどのように峻別されるべきなのだろうか。

それをハックル氏は「幻視/Vision」として説明する。クリエイションにおける「幻視/Vision」とは、製作者の審美眼を以て現下の社会の正鵠を得ることだ。高い審美眼を持つ者は、自身の欲求と他者の願望を重ねあわせて見ることができるのだ。
Visionを得るには、「離見の見」という概念を理解することが必要だ

"世阿弥は、その有名な「風姿花伝」という教えの中で、「離見の見」という概念を説いた。
これは、実際に舞う際に「集中している自分」と、それを離れたところから見ている「客観的な自分」というものを、同時に持たなければならない――というものだ。"
競争時代を生き抜く方法♯4「繊細さと勇気を同居させる」 (2,049字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar358728

「離見の見」とは、なにかものごとに執着している自分と、その自分を離れたところから見ている自分を同居させることである。クリエイティブな局面で、何かを作りたいと思って息巻く自分を、冷静な視点で見つめるのだ。
そのように執着をメタ視点で見ることで「自分にはこういう執着があるのか」という気づきがある。ではその執着を切り離せないのはなぜか、といったように徹底的に自分を客観視していく。これが「幻視/Vision」を得る道となるのだ。


シンボルとしてのフェラーリ
塾生K上氏は、『フェリスは~』の中に「キャメロン(主人公の親友)=Ferrari」という構造を見い出した。ハックル氏はそれに対し、シンボルが物語や人間そのものに与える影響の大きさは計り知れないとした。

例えば、インディー・ジョーンズにとってのシンボルは「帽子」であった。



また、ローマ時代においては銀鷲旗(アクイラ)は軍団への所属の象徴であり、カエサルの紅の大マントは決戦の象徴であった。
人は自己のアイデンティティーがシンボルに置き換えられるとき、承認欲求が満たされるのではないだろうか。それゆえに登場人物がシンボルに紐つけられるのをみたとき、感情移入を促される。
ものに魂が宿るというのはどういうことかを知る好例である。


フェリスの果たす役割
前述したように、この映画は主人公であるフェリスが画面の向こう側から語りかけてくるという、特徴的な形式を採っている。
虚偽と現実の狭間を乗り越える存在としてのフェリスが、『フェリスは~』のなかで果たした役割についてどんなものが挙げられたかをみていく。
塾生のプレゼンテーションの中から抜粋すると、

K谷氏:シカゴの街を案内するホスト役
N谷氏:言って欲しいことを言ってくれる
Y脇氏:「ものごと」を知っていて、他者に成長を促す存在

などが挙げられた。
これらは『フェリスは~』のもつ荒唐無稽さを受け入れられれば、という条件付きではあるが、映画への没入や登場人物への感情移入を促すという点で通底している。
ところが塾生S木氏は、最後の最後で鑑賞者を「突き放す存在」としてのフェリスという側面に光を当てた。
フェリスはエピローグで、「It's over, go home.」と鑑賞者を突き放す。そしてS木氏は、このセリフにひょうきん族のエンディングテーマや、幼き日の「5時の鐘」との同一性を見い出した。

『フェリスは~』の鑑賞者は時間と空間の移動に加えて、映画的な嘘と現実の境を行きつ戻りつすることで、この映画に没入する。ところが最後の最後で横面をはたかれて目を覚ませといわれるのだ。そして現実へと引き戻される。
ハックル氏はこれに対し「商売女」の魅力との相似形を指摘する。彼らは、楽しい時間を過ごしたあとで冷たく突き放すことで、より深いコミットを得るのだ。

そして何より、映画という箱庭から現実世界へと引き戻すことは、非常に重要な意味をもつのではないだろうか。
感情移入・コンテンツへの没入と、その世界から現実に戻ることの重要性を示唆した、アメリカのコメディ番組の一幕を抜き出した動画を紹介し、本稿を終えたい。



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第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
http://blogger.naminoritaishi.com/p/huckleberry.html


2015年2月10日火曜日

作品を見るときに内容を見てはいけない!? 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第二回


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年1月31日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第二回に参加したので、レポートをお届けします。

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今回の授業に先立ち、映画『天国と地獄』と『スティング』を観て、美しかったところをどちらか一方の映画からプレゼンテーションする、という課題が与えられた。
各々のプレゼンテーション後にはハックル氏からプレゼンテーションの評価やその内容を掘り下げての解説があり、様々な角度から、「換骨奪胎」における「構造を見抜く」ことが敷衍された。

課題となった映画が、ハックル氏ブロマガの「週末に見たい映画」シリーズでそれぞれ紹介されている。

週末に見たい映画#006「天国と地獄」(2,662字)※有料記事です。 http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar47482


週末に見たい映画#26「スティング」(2,288字) ※有料記事です。
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar265556


本日のメニューはこちら!

  • 「なにを描くか」よりも、「なにを描かないか」
  • 大胆な省略と感情移入の構造
  • 利益が相反する場面で相手を倒す(殺す)
  • ルック&フィール、抗いがたい魅力
  • 空間認識能力を磨く
  • 「なにを伝えるか」ではなく「どう伝えるか」




なにを描くかよりも、なにを描かないか
映画とは編集である。そして編集とは「なにを描かないか」を決めることである。描かない部分が「暗示」となり、それを鑑賞者が能動的に受け取ることで、「何かを読みとった!」というよろこびが生まれるのだ。

映画『天国と地獄』では、逮捕された犯人に面会した権藤が淋しそうに刑務所から出てくるシーンが、暗示にならない、あまりに直截的であるとされ、カットされ不採用となったという逸話が紹介された。黒澤明監督が、いかに暗示に重要な意味を持たせようとこだわっていたか、編集の効果を重視していたかを感じさせる。


大胆な省略と感情移入の構造
引き続き、映画において「編集」という行為がもつ大きな意味に関する話題。

塾生S山氏は映画『スティング』の劇中の時間の流れと、現実、つまり映画の再生時間がどのような構成になっているのかを分析。その結果、物語が展開されるきっかけとなる詐欺のシーンに20分。結末に繋がる「有線」を仕掛けるシーンに100分。そしてそれを行なうにあたって仲間を募り、準備をするというおそらくは最も劇中では時間が経過しているであろうシーンが、たったの1分であるということがわかった。さらにはこうした構成が、映画『風立ちぬ』でも同様に見られるとして、大胆な省略に映画の魅力を感じずにはいられないとした。

ハックル氏はこれに同意を示し、この大胆な省略を「欠損」と呼び、この欠損が立ち現れるとき、役柄の真摯さや苦労が伝わり、それが感情移入、そして好意へと繋がっていくのだとした。さらにはこの欠損のなかに、大きなメッセージ、換骨奪胎のヒントが隠されているのだ。

感情移入という点で、塾生Y脇氏は『天国と地獄』の主人公である権藤のものづくりへのこだわりに共感を覚えたと言う。これに対しハックル氏は、この映画が「権藤を魅力的にする」という明確な目的をもって作られたと指摘する。

では、どうすれば魅力的な人物像を描けるのか。

さりげなく、わざとらしくなくその人の努力や信念を感じさせることだ。なぜなら、人は愚直な人間を見ると、コントロールできると思い、好きになるからだ。この映画では、権藤が重役とのやりとりで語るものづくりへのこだわりや、身代金を入れるカバンに、火や水に反応するクスリを仕込むシーンで、手仕事が身に馴染んでいる様子などが描かれ、
1.いい人に見せるという意図があり
2.どうすればさりげなくできるかを考え
3.話の進行に織り交ぜる
という手順が踏まれていることを伺わせる。


利益が相反する場面で相手を倒す(殺す)
ここまで映画における「編集」と「大胆な省略」について紹介してきたが、それを行なうにあたって割りを食う存在がある。それが役者だ。クリエイティブに向かうとき、ひとりではものは作れない。映画ともなればなおさらだ。そこで、人を倒す(殺す)必要がある。このことは岩崎夏海クリエイター塾では繰り返し学んできた。

ことのほかこの映画においては、警察に電話をかけるシーンや犯人から二度目に電話がかかってくるシーンが省略されていたり、最大のヤマ場である救出シーンをあえてロングショットで撮影するなど、鑑賞者がそこに存在するであろう表情や会話に想いを馳せるような工夫が凝らされている。しかし、ヤマ場の救出シーンとなれば、役者(三船敏郎)にとってももちろん最大の見せ場である。どんな表情を見せてやろうか、どう演じようか、その意気込みたるや想像に難くない。ところが現場に行ってみると、カメラは遥か50メートルも遠くに据えられている。このときの三船敏郎氏の心境やいかにと苦笑いのハックル氏に、塾生も笑いに包まれるが、これをよしとして撮影を続けることができるのも、黒澤明監督と三船敏郎氏をはじめとした役者陣との信頼関係があるからこそなのだ。その信頼関係とは、見せ場をもらうという短期的な価値を乗り越え、欠損を示すことで映画自体の評価が高まり、結果として役者としての評価が高くなるという、長期的な価値を得られるという期待である。それこそが、クリエイティブな場面で相手を倒す(殺す)ということにつながるのだ。

塾生K上氏は、『天国と地獄』における美しいシーンとして、逮捕された犯人に面会した権藤(三船敏郎)の背中を挙げる。怒りと苦悩を、背中で語るこのシーンが最も美しいと。この評価こそが、黒澤明監督が重要なシーンを大胆に省略することによって、鑑賞者がなにを読み取るのかが決する、ハックル氏が言うところの「射程の深い」作品となった証左とも言えるだろう。


ルック&フィール、抗いがたい魅力
映画『ゴッド・ファーザー』などを撮影した、ハリウッドを代表する撮影監督ゴードン・ウィリス氏は、書籍『マスターズオブライトーアメリカン・シネマの撮影監督たち』で、一本の映画のなかで一貫した「ルック」を保つことが重要だと説く。『スティング』を貫くルックは、アメリカを描いたノーマン・ロックウェルを彷彿とさせる魅力的な画となって鑑賞者を引きつける。

塾生K谷氏は、この映画の冒頭と結末のシーンに、まるで絵画に描かれたようなストップモーションから、やがて人々が動き出すという「静から動への躍動」という共通点を見出した。冒頭と最後に関連性を持たせるこの手法は、ジョセフ・キャンベルの「行きて帰りし物語」を想起させる。

塾生S木氏は『天国と地獄』から「音」に関する抗いがたい魅力を引き出した。それは、刑事「ボースン」という名前の響きである。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の「ジョージ・マクフライ」や「レンジでチン」などの耳に残る、連呼したくなるような「音の感触」が人を惹きつけるのだという。ハックル氏はこれに付け加え、『機動戦士ガンダム』の作者・富野由悠季氏の名付けの手法として「ガギグゲゴ」の音へのこだわりや、「シャア」のように世界中の名前のストックがあることを紹介した。


空間認識能力を磨く
塾生U杉氏は『天国と地獄』における、人物のプロファイリング、人物造形、人間関係などが構築する世界観のリアリティを評価した。

これに対してハックル氏は、映画などのコンテンツ内リアリティと現実のリアリティとの間にある、明確な差異について言及する。コンテンツにリアリティをもたせる要因は「箱庭感」である。現実のなかに入れ子になった閉じた空間にもうひとつの現実を形成するのだ。その意味で、黒澤明氏は箱庭を精緻に作り上げることに長けていると分析し、クリエイターには空間認識力と建築的な素養が求められるとした。

空間認識力は、「都市がなぜそのような構造になっているのか?」という、地形+αが紡ぐ「Code」を読み解くことで鍛えることができる。名作を生み出してきたクリエイターたちは、この空間認識力を武器として、そのクリエイションのなかに魅力的な空間を生成してきた。ハックル氏は特に空間生成能力が高いクリエイターとして、大友克洋氏を挙げる。クリエイターは『AKIRA』や『童夢』などの作品から、その最高峰を知る必要があるだろう。


「なにを伝えるか」ではなく、「どう伝えるか」
前項までが塾生のプレゼンテーションを通じて展開された授業内容となるが、この課題を通して塾生が学んだことは、「換骨奪胎」における「構造を見抜く」ことだった。ハックル氏はこのクリエイションの構造を成すものを「側(ガワ)」と呼び、クリエイティブな場面においては、中身よりも「側」を磨いていくことが重要で、「内容が大事」というのは本質的ではないのだと言う。

「側」についてもっと具体的な例を挙げれば、
・フォント
・ファッション
・名前
・音
・匂い
・バランス
などがある。これらは一般的にないがしろにされがちな故に、人々は無意識の領域で支配されるのだ。

この「側」について授業後の質疑で、塾生から
「側を見抜くときに突き当たる、『自分らしさへの志向』と『本質に向かう道のり』の差異はどんなところにあるのか?」
という質問があがった。

これに対するハックル氏の回答は、
「前者は鑑賞者としての視点であり、後者がクリエイターとしての視点である、という差異がある。」
というものであった。

この両者の違いは、前者は「内容」を受け取り、後者は「側」を見抜こうとしているということだろう。換骨奪胎において「構造を見抜く」といわれたとき、多くの人が前者の考えにとらわれてしまう。それが単に鑑賞者であるだけなら問題はないが、実は多くのクリエイターがその罠に陥っている。

このことを前述の書籍『マスターズオブライト』でゴードン・ウィリス氏が言及しているので引用し、記事を終えたい。

優れた監督が「すごい企画を見つけてね、ぜひやってみたいんだ」と言うのはいい。「何か訴えたいことがある」と言う監督にはいつも気持ちがぐっと暗くなる。確かに精神の奥深いところでそういう欲求があるのかもしれない。でも、それはちょっと危険なことだと思う。彼らが本当にそう信じているかどうかさえ定かじゃないからね。つまり、監督の仕事とは物語を画面にうまくのせて、観客が物語に入り込み、興奮し、知的なというよりもむしろ、娯楽のレベルですごいものを見たと感じるようにさせることなんだよ。
(マスターズオブライトーアメリカン・シネマの撮影監督たち p.316)

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授業の中で言及された作品
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天国と地獄



スティング



マスターズオブライトーアメリカン・シネマの撮影監督たち



童夢




AKIRA 全6巻完結セット(KCデラックス) 大型本




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第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
http://blogger.naminoritaishi.com/p/huckleberry.html