2015年3月22日日曜日

努力アピールと解体されるパラドックス 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第五回


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年3月14日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第五回に参加したので、レポートをお届けします。


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今回の課題は、映画『風と共に去りぬ』。
ハックル氏ブロマガの「週末に見たい映画」シリーズで、「映画史に残る傑作」として紹介されている。

週末に見たい映画#34「風と共に去りぬ」(2,178字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar328286


今回は『風と共に去りぬ』と、ハックル氏プロデュースの自主制作映画『小劇場のボクサーたち』(※)への取り組みから導出された、クリエイティブにおける勘所に焦点を当てていこう。

(※)このレポートを書いている最中(3/21)に映画が完成したとのブログが公開された。
【自主制作映画】完成しました! ― 源氏山楼日記

岩崎夏海クリエイター塾においてクリエイティブを学ぶとき、映画を始めとしたコンテンツそのものよりも、それを取り巻く「外郭」について語られることが多くなる。
それは、ものごとを上のレイヤーから見おろす視点を獲得することに他ならない。
しかしながら、そのレイヤーの正体についてかんたんな言葉で言い表すことはできないため、八方手を尽くして説明することになる。そのとき映画は、メディウムとしての役割を担うのだ。


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  • リリース
  • 一周回る
  • 矛盾と嘘



リリース
映画『風と共に去りぬ』は原作からして、文学としての価値が高い。

"原作の小説なのだけれど、これは文学史に残る金字塔だ。もはや永遠に廃れることはなく、格付けでいえばトリプルAの作品である。「ハムレット」や「ドン・キホーテ」と、ほとんど同列といって差し支えない。実際、書かれてから90年近くが経つけれど、いまだに読み継がれている。"
週末に見たい映画#34「風と共に去りぬ」(2,178字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar328286


それと同時に、小説で表現されているものを映画として表現することの難しさが立ち現れるのだとハックル氏は言う。多くのクリエイターはこの事態に直面してきただろう。
限界寸前までこだわる過程で、どうしても理想との隔たりを埋めることのできない局面を迎えることになる。
すぐれた審美眼を持つがゆえに、それに適う作品をつくり上げる道の途上には、あらゆる障害が待っているのだ。

そこでクリエイターに求められるのは、理想の状態を極限まで目指しながら、最終的には折り合いをつけて現実に寄り添っていく「リリース」のポイントを知ることであるとハックル氏は説く。
ぎりぎりの選択を自分に課し、その上で、あるポイントで執着やこだわりを捨て去るのだ。その瞬間に素材が活き始めるのを感じとることができる。


一周回る
前項の「リリース」に付随する概念として、ハックル氏は「一周回る」という表現を提示する。「一周回る」とはどういうことなのだろうか。
最近ネット上で話題になっていた、百田尚樹氏のケースから紐解こう。




努力アピールの否定から二年が経ち、「一周回って」努力アピールをする百田氏を揶揄する人間が散見されたが、ハックル氏はむしろこれを成長の証と看破した。
さらにハックル氏は過去にご自身のブロマガでこんなことを書いている。結果を出すためには「伝説」が必要であるが、「伝説」をどのように演出するかと言う視点で書かれた2012年の記事である。

"まず、カッコつけることそのものはカッコ悪い。だから、あえてカッコつけることもまた、カッコ悪い。
しかしながら、「あえて」カッコつけるということは、実はカッコ悪いということが分かっていながらやっている行為なので、実はカッコつけていない、ということもできるのだ。
つまり、あえてカッコつけることは実はカッコつけていない行為なので、つまりは一周回ってカッコいい。"
伝説の作り方(2,632字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar13731


この記事の「カッコつける」を「努力アピール」に置き換えると分かりやすいだろう。

"まず、「努力アピールする」ことそのものはカッコ悪い。だから、あえて「努力アピールする」こともまた、カッコ悪い。
しかしながら、「あえて」「努力アピールする」ということは、実はカッコ悪いということが分かっていながらやっている行為なので、実はカッコつけていない、ということもできるのだ。
つまり、あえて「努力アピールする」ことは実はカッコつけていない行為なので、つまりは一周回ってカッコいい。"

「一周回る」イメージを掴むことは、普段の生活のなかでも取り組むことができる。
具体的な取り組みを三つほど紹介しよう。

・前フリでトークのハードルを上げる
お笑いやトークの教訓として、「面白い話があるんだけど」という前フリをしてはいけないというものがあるが、あえて前フリでハードルを上げ、その上で相手に面白いと思わせる話し方をする。

・ネジをもう半周回す
一時期ネット上のバズワードになっていた「意識高い系」が半周回って下火になっているが、そのネジをさらに半周回して、あえていま意識高い取り組みをする。

・善行の修練
普段から行なう善行を決め、「いい人に思われたいと思っているようには思われたくない」という気持ちを乗り越えて、人前でも善行を行なう。


■矛盾

人は矛盾なしに生きていけない。人は矛盾とともに生きている。
このように言われてピンとくる人は、あまりいないだろう。ここでいう矛盾とは「コンテンツとしての物語」と「神話としての物語」の中に立ち現れるものだ。もっとも本質的な矛盾は「嘘と真実」であろう。

この矛盾の意味するところを、まずは「コンテンツとしての物語」から見てみよう。
ところで、歴史に残る名作に関する面白い共通点がある。
『ドン・キホーテ』を著した、ミゲル・デ・セルバンテスに肩を並べる作家とも評されている、ガブリエル・ガルシア・マルケスの代表作『百年の孤独』と、『風と共に去りぬ』が、作者の祖母による「語り聞かせ」に端を発していることだ。

これにどんな意味があるかというと、『風と共に去りぬ』では南北戦争という現実に、マーガレット・ミッチェルの祖母が受け取った「印象」という嘘が入り込み、さらにマーガレット・ミッチェル自身の「想像力」という嘘が混ぜ込まれたのだ。
想像力とは「嘘と現実を織り交ぜる力」であり、現実が嘘と混じり合うところに物語の魅力が表出するのだ。

ハックル氏はこの考えを、太極図を用いて説明する。



太極図が示すものは、「嘘と真実が入り混じった様相」、そして「嘘の中にこそ真実があり、真実の核心は嘘である」という概念だ。

さらにハックル氏は、近松門左衛門の芸術論として聞き伝えられている「虚実皮膜」という言葉を引いて敷衍する。
"〈芸といふものは実と虚(うそ)との皮膜(ひにく)の間にあるもの也。……虚にして虚にあらず,実にして実にあらず,この間に慰が有たもの也〉"
虚実皮膜論 きょじつひまくのろん ― コトバンク


嘘と真実が混在し、その境界が曖昧になったところに、コンテンツの価値が存在するのだ。

続いて、「神話としての物語」もまた「嘘」が重要な意味を持つ。
神話の原型は、「雷の正体」などと言ったものであるが、

"雷鳴を「神鳴り」ということからもわかるように雷を神々のなせるわざと見なしていた。"
雷 ― Wikipedia

これはもちろん「嘘」である。だがそれに対しての知識が乏しいために、恐れを抱く人間はこれを「真実」として受け取り、自分を安心させる。

現代においてもこれと同様に様々な物語が必要とされ、「真実」として流布されていく
人々は、この矛盾のなかに、否応なしに巻き込まれながら生きていくことになる
これが、この項の冒頭で言及した「人は矛盾なしに生きていけない」という言葉の立脚点である。

そして、現代において最も人々が巻き込まれている物語にはどのようなものがあるだろうか。
それは「すっぱいブドウ」の寓話であろう。
すっぱい葡萄 ― Wikipedia


しかしながら、人々に本当に付与されるべきは、「すっぱいブドウ」の物語を「解体」する物語なのだ。


"「ブドウ」が手に入らないのは、それが「すっぱい」からではなく、「自らの能力が足りない」からだと受け止められたとき、人間の心は浄化されたようなすっきりとした気持ちを味わうのだ。アリストテレスは、その状態をカタルシスと呼んだのである。"
ライトノベルの書き方:その10「物語の解体方法」(1,912字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar751307


ここで言う「ブドウ」は人によって、成長かもしれないし、金銭かもしれないし、または名誉かもしれない。だが多くの人は、ブドウが手にはいらない責任を自分の側に引き寄せることができずに「嘘」に騙され続ける。

「すっぱいブドウ」は自分が縋りたい「嘘」の物語であり、クリエイターはその物語の核心にある「嘘」をメタ視点で認知できなければならない。「嘘と真実」をそのまま受けとるには修練が必要なのだ。そして岩崎夏海クリエイター塾はその修練の場ともなっている。

修練を積んだ先に見える真実は、世知辛いものであるに違いない。実は人を幸せにするのは「嘘」の方なのだ。
ハックル氏はこの状態を「楽しくないことが楽しい」と、自嘲めいてはいるが、クリエイティブに対する覚悟が仄見える言葉で言い表わす。
そんな心持ちを表すような、ハックル氏がTwitter上でシェアされていた記事を引用し、本稿を終えたい。




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第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
http://blogger.naminoritaishi.com/p/huckleberry.html


2015年3月13日金曜日

映画について語るときに僕たちの語ること 第二期岩崎夏海クリエイター塾 第四 回


皆さまこんにちは、波乗りたいし(@naminori_taishi)です。

2015年2月28日に渋谷で行われた、ハックル氏(@huckleberry2008)こと岩崎夏海氏(以下ハックル氏)の主催する「第二期岩崎夏海クリエイター塾」の第四回に参加したので、レポートをお届けします

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今回の課題は歴史的な名監督、小津安二郎監督の遺作でもある映画『秋刀魚の味』。
課題となった映画が、ハックル氏ブロマガの「週末に見たい映画」シリーズで紹介されている。
週末に見たい映画#29「秋刀魚の味」(2,738字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar286291

前回授業での課題発表時に「奇跡のような映画」と紹介されたこの映画は、なぜ奇跡となりえたのか。「時代の変化」「演技の排除」「極限まで高めた審美眼」という3つの視点で迫っていこう。

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  • 時代の変化
  • 演技の排除
  • 極限まで高めた審美眼



時代の変化
ブロマガでも今回の授業でも「時代の変化」が『秋刀魚の味』のテーマのひとつとして取り上げられた。
そして「時代の変化」を語る上で重要なトピックとなったのが、「集団の形成」である。社会の中で、人はなぜ、どのように集団を形成するのだろうか。

ハックル氏は、渋谷の街でふと目にしたカップルの距離感、表情、しぐさなどの馴染んだ様子に、かつて繰り返したある「問い」について思い出したそうだ。
それは、「なぜ女性と付き合わなければならないのか」という問いであった。初恋の芽生え以降、恋をするべきという強迫観念に近い感情にとらわれ、なぜ恋愛についてまわる諸々の高い壁を乗り越えてまで、伴侶を獲得しなければならないのかと。

往時のハックル氏が達した結論は、「社会的ソリューションである」というものであった。
二人以上の集団を形成したほうが、社会を生きていく上で行動の幅が広がるのだ。有り体に言えば組んでいないと損をする。しかも男女のつがいであれば、SEXというストレス軽減のオプションつきなのである。
次の画像は、黒澤明監督の映画『七人の侍』のワンシーンであるが、ここでも「夫婦」という集団が、社会のなかで効率よく実りを得られるということが示唆されている。

映画『七人の侍』より

このような問い立ては、ある意味では馬鹿げているようにも思える。多くの人がこのようなことは考えないか、考えたとしても浅はかなものにとどまって満足する。
しかしながらクリエイターとして生きる者は、社会の様態の本質がわからず、突き詰めたりもせず、後づけの理由にたぶらかされたりしている世間一般に足並みをそろえるわけにはいかないのだ。

ところで、集団形成の本質とこの映画で描かれている「時代の変化」に、どのような関連があるのだろうか。そのヒントがハックル氏のブロマガにある。

"本質を見極めるための最も基本的な方法は「観察」である。物事をじっと見る(中略)「過去と現在との差異」を見比べるのである。観察を、時間軸の中で行う。"
本質を見極める方法(2,147字)
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar674107


『秋刀魚の味』には過去と現在の差異を「観察」するための「歴史的価値」がある。集団を形成するための「結婚」というもののとらえ方が、大きく変化していく様を描いているのだ。
多くの人は、この映画で描かれている結婚観に「こんなの今ならありえない!」「当時だったら、こういうのもありえるんだろう」という反応を示すだろう。ここに「普通の人」が越えられない壁がある。
小津監督は、「これはいつか失われるだろう」という予感のもとに丹念に描き、その変化に永遠性を根付かせることに成功したのだ。

あるいは、小津監督の「女性とはなにか」という問い立てからなる、「女性の在りよう」を描いた映画でもあるだろう。というのも、女性が集団の中でどのような役割を果たすのか、というのは社会の変容とともに大きく変わってきたからだ。その変化の過程を正確に描き出そうとすることが、すぐれた映画を生むのだ。そこに小津監督のしたたかさ、精神の気高さを感じるとハックル氏は言う。

クリエイターは「時代を見る目」という刀を研ぎ澄ませる必要がある。クリエイターとして現代をどう読み解くのか。『秋刀魚の味』には時代を読み解くコツも隠されている。女性を見ること、街を見ること、どんなものが社会の中で必要とされているか、人々がどんな服を着ているのか。それらは全て、流れを成す時代の一片となるのだ。


演技の排除
『秋刀魚の味』の特徴は、役者陣による演技にある。ともすれば「演技下手」にも見えかねないものだからだ。
彼らは、日本の映画界が最も盛り上がっていた同時代の激戦を勝ち抜いたエリート俳優であり、数多くの名作に出演もしている実力者揃いである。にも関わらず、一見すると淡々として抑制的に感じてしまうような演技が、全編を貫いているのだ。

S魚氏は、料亭で出された鱧や壁に掛けられた桔梗の花から季節が夏であることを割り出す。だが、役者陣の演技からは夏であることを伺わせるような場面は一度もない。同時代に発表され、前々回授業のテーマともなっていた、黒澤明監督『天国と地獄』において、設定が夏の映画を冬に撮ることで夏の演技を引き出していたこととは相反する考え方であるとした。

これに対してハックル氏は、小津安二郎監督の演技に対する明確な意図に言及する。
それは、
「棒読みさせる」
「演技をさせない」
というものである。
特に「間」による演技をさせないということに注力しており、老若男女すべての登場人物が同じ間で話しているのだ。これが、鑑賞者に読み解きを促す。
『秋刀魚の味』では、「セリフで物語を進行させる」ことに尽力している。巧妙な会話のやりとりで登場人物の過去や思想が詳らかにされ、そのキャラクター造形を浮き彫りにしていくのだ。

ところで、『秋刀魚の味』における演技が「淡々として抑制的」と書いたが、リズムよくラリーを繰り返し、ある時点で劇的に分岐していく会話は非常に派手な心象を描きだしている、というのはハックル氏の言である。
その例として挙げるのが、物語の終盤、主人公である笠智衆演じる父親が、岩下志麻演じる娘――失恋直後の遣る方無い思いであろう娘に縁談を勧めるシーンだ。
これは娘を慮っているようで全く娘の気持ちを考えない親と、それに付き従う健気な娘という構図を描いた、非常にスリリングな場面となっている。

閑話休題、前述の『天国と地獄』においても、決定的な場面であえて演技をさせない黒澤明監督の「相手を殺す」演出について言及があったが、「演技をするのが役者だ!」という並み居る実力者を御する小津監督の胆力たるや想像を絶するものがある。
同時代に活躍した歴史的な名監督に垣間見る、方法論こそ違えどその本質は似通っている演出手腕、というのは決して偶然の賜物ではないだろう。


極限まで高めた審美眼
映画が映画であるべき理由とは何だろうか。
それは「絵の美しさ」をさしおいて他にないとハックル氏は言う。それは前提であり、土台である。前景、中景、遠景からなる奥行きと、画面を構成するグリッドの美しさが、映画におけるすべての基礎となるのだ。

『秋刀魚の味』では、パン、ティルト、ズームといったカメラアクションを排除し、さらに会話のシーンのほとんどを人物を中心に据えたバストアップショットで撮影している。
被写体を中央に位置すると、難しいバランスになる。得てして凡庸な構図になってしまうのだ。ところが『秋刀魚の味』ではそうはなっていない。絵の作り込みに気の遠くなるような労力をかけていることがわかる。まさに命をかけて映画を撮っている証左であるとハックル氏は言う。
画面に映し出されるすべてのものに気を配るというのは当然のことのようにも思えるが、「絵」に対する高い審美眼が備わっていなければ、その試みはすべて徒労に終わるのだ。

川の流れは、その流れの中にあってこそ意味を持つ。したがって流れの中から無造作に汲み取ってみても、そこにあるものは流れを失った、ただの水である。その流れを正確に写し取るためには、まごうことなき審美眼、技術、思索が高いレベルで結合されている必要がある。

ここでハックル氏の推薦図書、審美眼とバランスを学ぶための一冊として紹介されていた、赤瀬川原平『印象派の水辺』のある一文を引用したい。

"印象派の絵には、絵画の行き着く最終地点があり、同時に絵を描こうという気持ちの原点がある。その二つが無垢の形で結合していて、ほとんど永遠の気持ち良さが光っているのだ。"
赤瀬川原平・印象派の水辺 http://amzn.to/1AuseSl

この意味で『秋刀魚の味』は、まさに映画という表現の行き着く先ともなっており、また映画を撮ろうとする思いの原点があるのではないだろうか。儚く移り変わっていく時代の変化を、強靱な意思と確かな技術でフィルムに焼き付け、記録以上のものを後世に持ち運んでいくのだ。
そして凡百の映画とは一線を画す『秋刀魚の味』はまさに映画史における「奇跡」であり、それを岩崎夏海クリエイター塾という場で「味わう」ことができる喜びを噛み締めたい。

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第一期岩崎夏海クリエイター塾レポート・リンク集
http://blogger.naminoritaishi.com/p/huckleberry.html